アルトゥール・ルドルフ
Arthur Rudolph
サターンVの模型を手にするルドルフ
生誕 (1906-11-09) 1906年11月9日
ドイツ帝国 マイニンゲン・シュテプファースハウゼン
アルトゥール・ルーイ・フーゴー・ルドルフ(Arthur Louis Hugo Rudolph, 1906年11月9日 - 1996年1月1日)は、ドイツ出身のロケット技術者。カタカナ表記には英語風のアーサー・ルドルフが用いられることもある。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツでV2ロケットの開発において重要な役割を果たしており、戦後アメリカ合衆国に保護されたドイツ人科学者・技術者の中では最も重要な人物の1人に数えられていた。戦略諜報局(OSS)によってアメリカに招かれた彼は冷戦期のアメリカ合衆国の宇宙開発を先導した。またアメリカ陸軍およびアメリカ航空宇宙局(NASA)の元ではMGM-31「パーシング」ミサイルやサターンVの開発にも関与した。1984年、ナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について起訴される可能性が持ち上がった為にアメリカ合衆国を離れ、アメリカ合衆国の市民権の放棄に合意した[1]。ただし、アメリカ合衆国にいる間には起訴を受けていない。 1906年、ドイツ帝国のマイニンゲン・シュテプファースハウゼンにて生を受ける。彼の一族は古くから続く農家の家系であった。1915年、第一次世界大戦に従軍していた父グスタフが戦死する。アルトゥールと弟のヴァルターは母イーダの手で育てられた。イーダはアルトゥールに技師としての天性の才能があることを確信し、彼に機械技師としての修行を受けさせ、農場はヴァルターに継がせる事を決めた。1921年よりアルトゥール・ルドルフはシュマルカルデンの技術学校[Note 1]に3年間通った。1924年、ブレーメンの銀製品工場に就職する。 1927年8月、ルドルフはベルリンのStock & Co.に就職する。数ヶ月後、フリッツ・ヴェルナー
若年期
ロケット技術者としてハイラントにおけるロケットエンジン試験の様子。
5月27日、実験中の爆発事故でヴァリエが死去する。この事故を受けてパウルス・ハイラント博士(Paulus Heylandt)はロケット研究の継続を禁止したが、ルドルフはリーデルやアルフォンス・ピーチ(Alfons Pietsch)と共に密かに研究を続けた。ルドルフはヴァリエのエンジンを改良して信頼性と安全性を高め、またピーチはロケットエンジンを用いた車両の設計を行っていた。これらの成果を披露されたハイラント博士はいくらか譲歩し、ロケット研究への支援を約束すると共にハイラントロケット自動車(Heylandt Raketenauto)の設立を認めた。また、テンペルホーフ飛行場にてこれらの成果物の展示も行われた。これら成果物は技術的な成功と見なされたものの、莫大な燃料費を入場料だけで賄うことができなかった為、一般展示はまもなくして中止された。1931年、ルドルフは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)に入党し、突撃隊(SA)にも参加した[3]:38。
ルドルフがヴェルナー・フォン・ブラウンと初めて出会ったのは、宇宙旅行協会(VfR)の会合に出席した時だった。1932年5月に解雇された後、ルドルフはピーチと共に新型ロケットエンジンの設計に着手した。研究の後援者を探していたピーチは、陸軍兵器局ロケット兵器部門の長で、宇宙旅行協会との交流もあったヴァルター・ドルンベルガー大佐に出会う。
ドルンベルガー大佐に新型エンジンのデモンストレーションを見せた後、ルドルフはクンマースドルフ(Kummersdorf)の試験場に送られ、フォン・ブラウンの元で働き始めた。ルドルフが開発したエンジンは、アグリガット・ロケットで使用された。1934年12月、ボルクムの実験場にてフォン・ブラウンの研究班が2基のA-2ロケット発射実験に成功する。1936年末にはA-3ロケットの固定実験がクンマースドルフにて行われ、この際には陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ将軍も招かれている。
その後、クンマースドルフの施設はロケット実験を継続するには不十分とされ、1937年5月からフォン・ブラウンの研究班はペーネミュンデ研究所に移動した。ルドルフはここでA-3ロケットの実験を継続した。彼はここで娘マリアンネ・エーリカ(Marianne Erika)と共に暮らした。結局、A-3エンジンは誘導装置の問題が解決できず失敗に終わった。