アルトゥル・ニキシュ
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アルトゥール・ニキシュ
Arthur Nikisch

基本情報
生誕1855年10月12日
オーストリア帝国 ハンガリー王国
死没 (1922-01-23) 1922年1月23日(66歳没)
ドイツ国
学歴ウィーン音楽アカデミー
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
担当楽器ヴァイオリンピアノ
レーベルドイツ・グラモフォン
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アルトゥール・ニキシュ(ドイツ語: Arthur Nikisch アルトゥル・ニキシュ)、ニキシュ・アルトゥール(ハンガリー語: Nikisch Artur, 1855年10月12日 - 1922年1月23日) は、オーストリア帝国ハンガリー王国、レーベーニセントミクローシュ (Lebenyszentmiklos)(現在のハンガリー・モションセントミクローシュ(英語版、ハンガリー語版))出身の指揮者、ヴァイオリニスト、ピアニストである。ウィーン音楽アカデミーで学んだのち、ウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者として活躍したが指揮者に転向し、ライプツィヒ市立劇場ボストン交響楽団ブダペスト王立歌劇場ロンドン交響楽団などで活躍した。1895年以降はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者を同時に務めた。

ニキシュは「指揮者は単なる作曲家の代理ではなく、作曲家と同等の存在である」という信念のもとで指揮活動を行い、アントン・ブルックナーピョートル・チャイコフスキーなど同時代の作曲家たちの作品を世に紹介した。ニキシュの指揮は魔術的とも評され、様々な音楽家から称賛されたほか、後世の指揮者たちに大きな影響を与えた。

指揮者として活躍する一方、ニキシュはヴァーツラフ・ターリヒエイドリアン・ボールトアルバート・コーツといった後進を育てた。また、ピアニストとして歌手の伴奏を務めることもあった。

日本語ではアルトゥール・ニキシュ[1]、アルトゥル・ニキシュ[2][3]、アルトゥール・ニキッシュ[4]、アルトゥア・ニキシュ[5]とも記される。
生涯
幼少時代

1855年10月12日、オーストリア帝国ハンガリー王国のレベニー・シェント・ミクローシュに生まる[6]。父はドイツ=スラヴ系で男爵家の簿記係を務めており、母ルイーゼ・フォン・ロボツはハンガリー人であった[7][8]。その後家族の移住に伴い、モラヴィア地方のブッションヴィッツで育った[8]。なお、ニキシュはハンガリー語ではなく、ドイツ語を使用して育った[7]

5歳の頃より学校の教師からピアノと初歩の音楽理論を習い、長足の進歩をとげた[7][9]。さらに同年からヴァイオリンも演奏し始めた[10]。7歳の時には自動演奏楽器オーケストリオンに初めて接し、ロッシーニの『セビリアの理髪師』と『ウイリアム・テル』の序曲、マイアベーアの『悪魔のロベール』を耳にしたが、帰宅するやいなや、一度聴いただけの曲をピアノで完全に再現したという[6]。また、8歳の時にはピアニストとして公開演奏会を行ったが、この頃にはジギスムント・タールベルクによるオペラのピアノ編曲を演奏できるほどの腕前であった[7][6]。さらにニキシュは作曲も行うようになり、ソナタカルテットのほか、カンタータ交響曲を作曲した[7]

なお、息子の音楽の才能を目の当たりにした父親の判断により、ニキシュは正規の学校教育は受けず、家庭教師がつけられた[6][8]。この家庭教師のおかげでニキシュは深い教養を身につけており、数ヶ国語を操れるようになった[8]。音楽評論家のウエルナー・エールマンはニキシュの文章表現には並々ならぬ教養がうかがわれると指摘している[8]
学生時代

11歳の時にはウィーン音楽アカデミーに入学し、作曲、ピアノ、ヴァイオリンを学んだ[6][9]。ニキシュの成績は優秀で、卒業者にのみ開かれている上級作曲クラスに、入学後すぐさま編入されるほどであった[6]。13歳の時には、作曲部門の1等賞(受賞作品は弦楽六重奏)、ヴァイオリン部門の1等賞、ピアノ部門の2等賞など、音楽院の様々な賞を受賞したほか、16歳の時には代役としてウィーン宮廷オーケストラをバックにヴァイオリン・ソロを演奏した[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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