アルトゥル・ショーペンハウアー
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アルトゥール・ショーペンハウアー
Arthur Schopenhauer
『意志と表象としての世界』完成の三年前、27歳頃の肖像。L・S・ルール画
生誕 (1788-02-22) 1788年2月22日
ポーランド・リトアニア共和国グダニスク
死没 (1860-09-21) 1860年9月21日(72歳没)
自由都市フランクフルト・アム・マイン ドイツ連邦
時代19世紀の哲学
地域西洋哲学
学派観念論
実存主義
厭世主義ペシミズム
研究分野自然哲学生理学現象学
形而上学認識論存在論
倫理学道徳
美学色彩論芸術
数学論理学
言語哲学言語学
宗教哲学聖書
魔術
超常現象
主な概念意志
意志としての世界と表象としての世界
生きんとする意志の肯定と否定
意志と知性
厭世観
影響を受けた人物

ジョルダーノ・ブルーノ
ヤーコプ・ベーメ
釈尊
ジョージ・バークリー
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
バルタサル・グラシアン
デイヴィッド・ヒューム
イマヌエル・カント
ジャコモ・レオパルディ
ジョン・ロック
プラトン
ウィリアム・シェイクスピア
バールーフ・デ・スピノザ
ウパニシャッド
その他多数

影響を与えた人物

サミュエル・ベケット
マックス・ベックマン
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー
ヤーコプ・ブルクハルト
ジョーゼフ・キャンベル
ジョゼフ・コンラッド
デーヴィッド・ハーバート・ローレンス
クラレンス・ダロウ
アルベルト・アインシュタイン
ミハイ・エミネスク
ジークムント・フロイト
ヴィクトール・フランクル
ジョン・グレイ (政治学者)
ヨハネス・イッテン
カール・グスタフ・ユング
セーレン・キェルケゴール
カール・クラウス (作家)
ジュール・ラフォルグ
ギ・ド・モーパッサン
モーリス・メーテルリンク
トーマス・マン
エットーレ・マヨラナ
マシャード・デ・アシス
ステファヌ・マラルメ
フリードリヒ・ニーチェ
クヌート・ハムスン
ミシェル・ウエルベック
トーマス・ハーディ
エドゥアルト・フォン・ハルトマン
ヘルマン・ヘッセ
マックス・ホルクハイマー
ジョリス=カルル・ユイスマンス
カール・ポパー
マルセル・プルースト
ギルバート・ライル
ジョージ・サンタヤーナ
ジャン=ポール・サルトル
エルヴィン・シュレーディンガー
イタロ・ズヴェーヴォ
イワン・ツルゲーネフ
ディラン・トマス
レフ・トルストイ
レフ・トロツキー
ヴィヴェーカーナンダ
リヒャルト・ワーグナー
オットー・ヴァイニンガー
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
ニコス・カザンザキス
その他多数

署名
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アルトゥール・ショーペンハウアー(: Arthur Schopenhauer,1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツ哲学者[1]。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)[1]舞台発音ではショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも[2]
生涯
幼少時代少年時代のショーペンハウアー。

アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、富裕な商人であった父ハインリヒと、名門トロジーネル家の出身であった母ヨハンナ・ショーペンハウアーの長男としてダンツィヒに生まれる[3]

1793年(アルトゥール5歳)、ダンツィヒがプロイセンに併合された際に一家はハンブルクへ移住、妹アデーレが生まれた1797年(9歳)には当時の国際語であったフランス語習得のためルアーヴルの貿易商グレゴアール・ド・ブレジメール家に二年間預けられる[3][4]。以後長く友情が続くこととなる、グレゴアールの息子でアルトゥールと同年であったアンティームと親交を結び、この地で幸福な時間を過ごす[3][4]

ハンブルクに帰った1799年(11歳)より約四年間、商人育成のためのルンゲの私塾に通学[3][5]。アルトゥールはギムナジウムへの進学を希望したが、息子を商人にしようとする父に反対される[5]。結局後に商人になるという約束のもとで二年間のヨーロッパ周遊の途にのぼることとなる[5]

1800年(12歳)、家族と共に三ヵ月のプラハ旅行へ、1803?1804年(15?16歳)にはやはり家族と連れ立ってヨーロッパ周遊大旅行(オランダ、イギリス、ベルギーフランス、オーストリア、シュレージェン、プロイセン)へ出ている[5][4]。これらの旅行は父の商用旅行を兼ねておこなわれており、アルトゥール自身の旅日記が残されているが、上流階級との交流や劇場、美術館訪問などが記されていると同時に、路上の物売り、大道芸人、みすぼらしい旅館や居酒屋、旅人たちの労苦、民衆の貧窮、過酷な強制労働、絞首刑の場面など社会の底辺の悲惨と苦しみにも目が向けられ、しばしば激しい衝撃を受けていたことが窺われるが、その多くの感想には早くも厭世主義的な気分や判断がみられる。ただし、「厭世主義」といった言葉は一度たりとも彼の著作には見られない用語であり、厳密に言えば正確ではない。[4][5][6]
学問の道へ

ハンブルクに帰ってきた翌年の1805年(17歳)1月、商業教育を受けるために当時のハンブルクで最も優れた実業家にして、ハンブルク市参事(閣僚に相当)であったイェニッシュの商会に入ったが、4月に父が不慮の死を遂げる[5][7]。1806年(18歳)、伝統あるショーペンハウアー商会が解散すると、義務的に続けられる商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに会い苦しむようになったが[注釈 1]、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ[9]。翌1807年(19歳)、既にワイマールに移住していた母からの手紙で、学問の道に進むことへの助言と励ましを与えられ、これがアルトゥールの将来を決定することになる[8][10]。6月にハンブルクを去りゴータのギムナジウムに入り、12月にはワイマールのギムナジウムに転じる[8]。1808年(20歳)、ギムナジウムの校長で優秀なラテン語学者であるレンツにラテン語の会話を習う。[8][注釈 2]

1809年(21歳)、ゲッティンゲン大学に入学し医学部に籍をおきながら、最初の哲学の師となるゴットリープ・シュルツェのもとで哲学を学び、翌1810年(22歳)には哲学部へ移る[8][11][12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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