アルトゥル・シュニッツラー
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Arthur Schnitzler
アルトゥル・シュニッツラー
アルトゥル・シュニッツラー(1912年頃)
誕生1862年5月15日
オーストリア帝国 ウィーンレオポルトシュタット
死没 (1931-10-21) 1931年10月21日(69歳没)
 オーストリア ウィーン
職業小説家劇作家
国籍 オーストリア
民族ユダヤ系
教育ウィーン大学
活動期間1893年 - 1931年
文学活動モダニズム
代表作『輪舞』『アナトール』『夢小説
デビュー作『アナトール』(1893年)
配偶者オルガ・グスマン
子供ハインリヒ、リリー
親族父:ヨハン・シュニッツラー
母:ルイーゼ・マルクブライター
影響を受けたもの

ジクムント・フロイト

サイン
ウィキポータル 文学
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アカデミー・ギムナジウムの記念碑 ギムナジウム時代のアルトゥル・シュニッツラー(1878年)

アルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler, 1862年5月15日 - 1931年10月21日)は、オーストリアの医師、小説家劇作家。アルトゥーア・シュニッツラーとも表記される。ウィーン大学医学部教授も務めた高名な医師の息子としてウィーンに生まれる[1][2]ユダヤ系だがキリスト教徒である。

フランス文学の影響下にあった青年ウィーン(英語版)(若きウィーン、Jung Wien)の一員。憂愁・繊細美を特徴とするといわれるウィーン世紀末文化の雰囲気を基調に、鋭い心理分析と、洗練された印象主義的技法によって恋愛と死を描写した[2]。自費出版した戯曲『アナトール(ドイツ語版)』(1893年)の成功によって作家生活に入り、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと並ぶ新ロマン主義の旗手となった[2][3]ジークムント・フロイト精神分析学の影響を受け、富裕ではあるが閉塞感のただよう市民生活や社交界をときに陰鬱に描き、「世紀末ウィーン」の退廃的な気分を軽妙に表現した[2][4][5]。デビュー作の『アナトール』、森?外の紹介で知られる『恋愛三昧』(1895年)や『輪舞』(1900年)が代表作である[2][4]
作品と生涯
医師としてのスタート

アルトゥル・シュニッツラーは、ユダヤ人ハンガリーの小さな町出身の咽喉科医ヨハン・シュニッツラーと、その妻のルイーゼ(ウィーンの医師フィリップ・マルクブライターの娘)の長男として、ウィーン第2区レオポルトシュタットのプラーター通り (Praterstrase) 16番地に生まれた[5]

1871年から1879年までギムナジウムに通い、1879年7月に優秀な成績でマトゥーラに合格。その後ウィーン大学で医学を学び[1]、1885年5月30日医学博士号を取得した。なお、弟のユリウス・シュニッツラー(ドイツ語版)も医師となっている。

1885年から1888年までウィーン市総合病院の医員として勤務した後、1893年までウィーンのポリクリニック病院の咽喉科で父の助手として働くが、その頃からすでに彼は創作活動を行っていた。その始まりは、大学在学中の1880年ミュンヘンの雑誌「フライエ・ラントボーテ」(Der freie Landbote) に掲載された『踊り子の恋の歌』(Liebeslied der Ballerine) であり、彼は引き続き、雑誌「ブラウエ・ドナウ」(Blaue Donau)や「モデルネ・ディヒトゥング」(Moderne Dichtung)、新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」(Frankfurter Zeitung)、文芸雑誌「フライエ・ビューネ(ドイツ語版)」(Freie Buhne) といったメディアに小説などを発表した。

彼はまた学問的刊行物として『機能的失声症および催眠と暗示によるその治療について』(1889年)も著しており、これは彼にとってほぼ唯一の医学書である。1886年から1893年までシュニッツラーは医学出版にかかわり、70本以上の寄稿をしているが、その多くは父の創刊した雑誌『国際臨床医学展望』(Internationale Klinische Rundschau) における、編集者名義による専門書への書評であった[6]
作家生活へ 

シュニッツラーはやがて文学と演劇に傾倒し、カフェハウスで他の作家たちと交友関係をもつようになり、賭博におぼれ、劇場に入り浸った[5]。優雅な美男子であった彼はまた、評判の女たらしであり、貸し部屋やホテルで多くの情事を重ねた[5]。このような退廃的な生活を重ねる彼が、医師としてはたしてうまくやっていけるかどうか、母のルイーゼとその召使は心配していた[5]

1888年、シュニッツラーは、戯曲『アナトール(ドイツ語版)(Anatol)』を自費出版した[3]。『アナトール』は7つの一幕もので、表面的には快楽主義者であるが深層には厭世観をかかえる上流青年「陽気なふさぎ屋」が、下町の「可憐なおぼこ娘」や上流「社交婦人」と繰り広げる刹那的な恋愛遊戯を、揺れ動く内面とともに、物憂げに、優雅に描いた作品である[2][3]

1890年、彼はその神童ぶりが話題となった16歳のフーゴ・フォン・ホーフマンスタールと出会っており、シュテファン・ツヴァイクに対し、生涯初めて天才に出会ったように感じたと語っている[7]。ホーフマンスタールは、シュニッツラーの戯曲『アナトール』の紹介のため、美しい短詩を書いた[7]。シュニッツラーは、友人となったホーフマンスタールやリヒャルト・ベーア=ホフマンとともに「青年ウィーン派」の仲間に加わり、彼らはよくカフェ・グリーンシュタイドル(ドイツ語版)に集った。彼はケルントナー通り61番地にあるレストラン・ライディンガーにもよく通っており、また精神分析学ジークムント・フロイトとも知り合いの仲だった(詳細後述)。


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