アルチュール・ランボー
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アルチュール・ランボー
Arthur Rimbaud
17歳のアルチュール・ランボー(エティエンヌ・カルジャ(フランス語版)による肖像写真(1871年10月)
誕生 (1854-10-20) 1854年10月20日
フランス帝国シャルルヴィルグラン・テスト地域圏アルデンヌ県
死没 (1891-11-10) 1891年11月10日(37歳没)
フランス共和国マルセイユプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県
墓地シャルルヴィル
職業詩人
文学活動高踏派象徴主義
代表作「酔いどれ船(フランス語版)」
地獄の季節
イリュミナシオン
影響を受けたもの

ポール・ヴェルレーヌシャルル・ボードレールヴィクトル・ユーゴー、アルベール・メラ(フランス語版)

署名
ウィキポータル 文学
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アルチュール・ランボー、またはランボオ(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 - 1891年11月10日)は、フランス詩人アルベール・ティボーデにより、ヴェルレーヌマラルメコルビエールロートレアモン伯爵と並び「1870年の五人の異端者」の一人に数えられた。早熟な天才、神童と称された彼は、15歳のときから詩を書き始め20歳で詩を放棄するまでのわずか数年の間に「酔いどれ船(フランス語版)」などの高踏派象徴派韻文詩から散文詩集『地獄の季節』、散文詩自由詩による『イリュミナシオン』(一部を除いて没後出版)まで詩の伝統を大きく変えた。彼の詩論、詩人論として知られる「見者の手紙(フランス語版)」において「詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、広大無辺でしかも理に即した錯乱により、見者となる」と語り、ブルジョワ道徳をはじめとするすべての因習、既成概念、既存の秩序を捨て去り、精神・道徳、身体の限界を超え、未知を体系的に探求しようとした反逆、革命の詩人であり、ダダイスムシュルレアリスムへの道を切り開いた詩人である。

日本においても明治末期の上田敏永井荷風昭和初期の小林秀雄中原中也、戦後の堀口大學金子光晴と、優れた文学者によって次々と紹介・翻訳された。
背景

アルチュール・ランボーは1854年10月20日、陸軍大尉フレデリック・ランボー(フランス語版)と近郊ロッシュ(フランス語版)村の小地主の娘マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフ(フランス語版)の第2子ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボーとして、フランス北部のベルギーとの国境に近いシャルルヴィルグラン・テスト地域圏アルデンヌ県)に生まれた。母ヴィタリー・ランボー(1890年頃)

1歳上の兄ジャン・ニコラ・フレデリック、3歳下の妹ヴィクトリーヌ・ポーリーヌ・ヴィタリー(生後1か月で死去)、4歳下の妹ジャンヌ・ロザリー・ヴィタリー(フランス語版)、6歳下の妹フレデリック・マリー・イザベル(フランス語版)の5人兄弟姉妹であった。先祖にガリア人をもつ。父フレデリックは任地にいて不在がちのうえ、イザベルが生まれた後(ランボーが6歳の頃から)家に戻らなくなり、母ヴィタリーは女手一つで4人の子を育てた。ランボーは幼時に、この厳格・勤勉で気位が高く、非常な敬神家であった母の影響を強く受けたとされる[1]。ランボーについて多くの研究書を発表した作家美術史家のクロード・ジャンコラ(フランス語版)は、2004年に、この「悪名高い」母親とランボーの関係について、特に二人の性格の類似性とそれゆえの反目と愛情に焦点を当てた評伝『ヴィタリー・ランボー ― 息子アルチュールへの愛』を発表している[2][3]11歳のランボー(1866年の初聖体拝領)

1861年、私立のロサ学院(フランス語版)に入学。一家の引っ越しのため、1865年に市立シャルルヴィル高等中学校に転校した。早熟な天才、神童と称されるランボーは、実際、模範的な優等生で、ラテン語の詩などで数々の優等賞を得た[4]。シャルルヴィル高等中学校の同窓生に作家のエルネスト・ドラエー(フランス語版)がいる。彼は後にランボーの詩作や生活に助力し、彼に関する著書を残すことになる。
詩人ランボー
ジョルジュ・イザンバールとの出会い

ランボーが文学の道を志すきっかけとなったのは、1870年1月、彼が15歳のときに修辞学の教師としてシャルルヴィル高等中学校に赴任したジョルジュ・イザンバール(フランス語版)との出会いであった。22歳のイザンバールは革命思想の持ち主でもあり[4]、彼の教養思想などに大きな影響を受けたランボーは、読書に没頭し、詩作を始めた。早くも同年に「孤児たちのお年玉」[5] を文芸誌『ラ・ルヴュー・プル・トゥース』[6] に発表し、5月にはイザンバールの勧めで『現代高踏派詩集(フランス語版)』の編集委員の一人であった詩人・劇作家のテオドール・ド・バンヴィルに「オフィーリア」「感覚」「太陽と肉体」の3編の詩を送り、同詩誌第2集への掲載を懇願した。これらの詩は、実際、バンヴィル、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールら高踏派の詩に倣ったものだが、とりわけ「感覚」は、伝統的な詩の技法から脱した、ランボー独自の世界を切り開くものとして、後に高く評価されることになる[7][8]
家出と放浪「坐っているやつら」の原稿(1871年)

同年8月、ランボーは家出をして普仏戦争下のパリに向かった。だが、無賃乗車のために北駅で逮捕され(当時リヨン駅の向かいにあった)マザス刑務所(フランス語版)に収容された後、シャルルヴィルに送り返された[4]。この後も数か月の間にさらに2回家出をし、北フランス、ベルギーを放浪しながら「わが放浪」「みどり亭で」「戸棚」「冬の楽しみ」の他「谷間に眠る男」などの戦争に関する詩を書き続けた。うち22編を2冊の手帖に清書して、ドゥエオー=ド=フランス地域圏ノール県)滞在中にイザンバールを介して知り合った詩人ポール・ドメニー(フランス語版)に託した。これらは後に「ドゥエ詩帖(フランス語版)」として知られることになる。

1871年5月13日付のイザンバール宛の手紙 と 1871年5月15日付のドメニー宛の手紙 は、後にランボーの詩人としての宣言文「見者の手紙」として知られることになる。「母音」と並んで最も多く論じられる詩「盗まれた心」を含むイザンバール宛の手紙に、ランボーは次のように書いている。

私は考える、と言うのは誤りです。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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