『アルチェステ』(イタリア語: Alceste、フランス語: Alceste)は、ドイツに生まれ、現在のオーストリアとフランスで活躍した作曲家クリストフ・ヴィリバルト・グルックが作曲した全3幕のイタリア語のオペラでグルックの唱えた改革オペラの第2作目である。1767年12月26日にウィーンのブルク劇場にて初演され、1776年4月23日にフランス語の改訂版『アルセスト』がパリ・オペラ座で上演された[1]。
概要ピアノ譜の表紙
ウィーンでの初演は大成功であり、その後60回上演された。ウィーンでは1770年、1781年、1786年にも再演され、1804年までにはヨーロッパ12都市でも地方初演が行われた。1776年のパリ初演時には大規模な改訂が行われた[2]。パリ初演も大成功を収め、フランス・オペラの発展の上でも決定的な影響を与えることになった[3]。グルックは本作の序文のなかで、以下のように述べている。
『アルチェステ』の作曲に着手したとき、私はすべての悪習を徹底的に取り除く決心をした。この悪習をもたらしたのは、歌手の誤った虚栄心や作曲家が彼らにおもねっていたことである。こうした悪習が実に長い間イタリアオペラの価値を損ない、実に素晴らしく、実に美しい出し物をまったくばかげた、退屈な代物に仕上げてしまったのである。私は無意味な過度の装飾で筋書きの流れを妨げたり、抑圧したりせずに、様々な表現手段によって、また物語の場面状況に従うことによって音楽を詩に奉仕するという真の役割に留めるよう努めてきた[4]。
ジョン・エリオット・ガーディナーによれば「本作は有名ではあるがよく理解はされていない類の作品に分類される。本作は論議を呼ぶような序文ばかりが語られるが、その音楽の素晴らしさはほとんど理解されていない。本作がパリでかくも熱狂的に受け入れられた主な理由はジャン=フィリップ・ラモーの1764年の死後、1760年代から 1770年代にフランスではトップランクの作曲家による創造力に満ちた作品が供給されていなかったのであり、本作はその空白を埋めたからなのである。私は今回のフランス語版のパリやロンドンでの上演と録音を通して、改めて本作の音楽の純粋な公正さや魂の崇高さに感動させられた。一方で、楽譜の上での技術的なずさんさにも辟易させられたのである。一体どうすれば、このような長所と短所が一つの頭脳に同居することができるのかとすら、考えさせられた。なお、楽譜上の不手際についてはベルリオーズによれば、グルックの怠惰と写譜担当者の資質に起因するものということである」[5]。
音楽的特徴については、『オペラ史』を著したD・J・グラウト(英語版)によれば「作品の全体はトンマーゾ・トラエッタの作曲法を思わせるやり方で、大規模なコーラスを含む種々の手法を併用したモニュメンタルなシーンの集積という形をとり、それがこの作品の特に著しい特徴になっている。第1幕は最も統一感があり、満足すべきものである」[6]。なお、本作で最も有名なアリア「不滅の神々よ、私は求めず」(Divinites du Styx)を永竹由幸は「18世紀に書かれたアリアの中で最も偉大なアリアのひとつである」と評している[7]。 『新グローヴ・オペラ事典』によれば「本作の2稿はそれぞれの良さをもった、事実上別個のオペラであることは明らかだ。?中略?フランス語稿ではイタリア語稿の最良の音楽は実質的にすべてそのままに残され、さらに、多くの音楽が書き加えられているからである。?中略?パリのために『アルチェステ』を改訂し始めたとき、グルックはそれまでとは違った、一層洗練されたフランス流の演劇観を採った」[8]。結論としては「初稿を過小評価するわけではないが、二つの稿を比較するとどうしてもフランス語稿のほうに軍配が上がってしまう。改訂稿は初稿の最良の部分すべてを凝縮して持っており、グルックの音楽的・劇的表現力の成長と釣り合っているからである」[9]。一方で、永竹由幸のように「各々一長一短があり、どちらが良いとも言えない」という見方もある[7]。 イギリス初演は1795年4月30日にロンドンにて行われた。出演はジョルジ=バンディ、キリー、バゲッティらであった。また、アメリカ初演は1938年 3月11日にマサチューセッツ州のウェルズリー大学で行われた[10]。1861年のパリ・オペラ座での上演ではポーリーヌ・ヴィアルドのためにベルリオーズが若干の修正を行っている。また、1920年代から1940年代にかけて、ジェルメーヌ・リュバン
パリ改訂版
初演後