アルゼンチン経済の歴史
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この項目では、植民地時代から2000年までの経済史について説明しています。通史については「アルゼンチンの歴史」をご覧ください。

アルゼンチン経済の歴史は、経済学の研究対象として非常に高い関心を集めている主題である。何故ならば、アルゼンチンは「アルゼンチンのパラドックス」とも言われる特異な歴史を経ていることが背景にある。アルゼンチンは20世紀はじめに加速度的な経済発展を遂げながら、その後の凋落もまた加速度的であり、先進国(ただし農業畜産業国)から発展途上国に転落した唯一の国となった原因については豊富な論文が書かれて様々に分析されてきた[1][2]。アルゼンチン経済の歴史とは、ペロン主義[3]の歴史である。ペロン主義者は1946年フアン・ペロン大統領の初就任以降、軍部独裁期間の1976?1983年を除き、ほとんどの選挙で勝利し、2023年時点で最短20年・ペロン系左派ポピュリズム政権を含むと最長70年以上も政権時代があった[4][5]
概要

アルゼンチンは1816年スペインから独立して以降、8度の債務不履行デフォルト)を経験している[6]。インフレ率が2桁に達したことも1回や2回ではなく、最高で5000パーセントものインフレーションに遭い、大幅な通貨切り下げを繰り返した。


マクロ経済学的には、アルゼンチンは大恐慌(1929年に始まり、1930年代後半)まではきわめて安定的かつ堅実な国家だったが、恐慌が起こってからは最も不安定な国に数えられるようになった[7]。1930年代以降、アルゼンチン経済の凋落には著しいものがあったにもかかわらず[8]1962年まではアルゼンチンの1人当たりのGDPが、かつての宗主国であるスペインは言うに及ばず、オーストラリアイタリア日本よりも高かった[9]

1930年代から70年代まで各政権は「経済の自給自足」を達成するため、輸入代替を追求する戦略をとっていた。しかし、政府が「工業の発展」を推奨したことで資本は分散し、農業生産は劇的に減少させた[10]。輸入代替を目指した時期は1976年までだが、この頃から政府の支出が増大し、大幅な賃上げと生産性の悪化によって1980年代まで尾を引く慢性的なインフレが生じた。ペロン党政権時の左派ポピュリズム政策による放漫財政はアルゼンチンに悪影響を及ぼした[10][11]



世界恐慌以前

アルゼンチンは世界第8位という広大な国土を持ち[2]、肥沃な土地(パンパス)に恵まれ、農業においては比較優位を持っていた[12]。しかし独立戦争によって領土であり市場でもあったペルーを喪失し大西洋自由貿易からの利益で代替しようとしたものの、独立後の政治的混乱もあって早くも1827年にはデフォルトに陥った。この時の債務整理は40年近くもかかり、長期的なペソ下落とインフレに悩まされる結果となった。

アルゼンチンの国家体制が確立しパタゴニアなど南部一帯への植民・開発が進むとようやく経済が安定し、イギリスなどヨーロッパ諸国からの投資を受け入れる一方で産出される農作物をヨーロッパに輸出する国際分業体制が確立した。またスペインイタリアポルトガルなど南欧諸国からの移民労働力として積極的に受け入れたこともあり、1860年から1930年にかけて力強い経済成長を果たした[8]。20世紀前半の30年間で、アルゼンチンの人口、総所得、1人当たり国民所得はカナダとオーストラリアを上回っている[8]1913年までに、アルゼンチンはこの1人当たりの国民所得で世界十指に入る裕福な国になった[13]。最盛期である1929年には、アルゼンチンは世界第五位の経済大国に発展していた[2]
世界恐慌の影響

しかし、1929年から始まった世界恐慌、その対策として英国ブロック経済圏への参入と経済的従属する事態となった[2]。これへの不満に1930年にクーデターが勃発し、初の軍事政権が誕生し、70年間に及んだ文民による立憲政治は終わりを迎えた[14]
ペロン政権と影響

1946年にペロン政権が成立し、外国資本排除(外資排斥)、産業国有化、福祉・公共支出拡大、現金性補助金支給、賃金引き上げなどアルゼンチン・ナショナリズム・左派ポピュリズム・左翼的ファシズム政策をとった。南米における左派ポピュリズムの元祖的な存在である。第二次世界大戦時におけるアメリカなどへの牛肉、羊肉など農業・畜産輸出による富裕国であり、それで得た外貨でこれらの政策をおこなったが、すぐに使い果たした。その上に、1949年頃にはアメリカやカナダの増産により、アルゼンチンの食糧輸出は不振となってインフレがおこった。次第にペロンは苦境に追い込まれることなった。1952年再選後、同年7月に国民からカリスマ的な人気のあった妻がガンで死亡したことも支持減に繋がり、離婚法の制定でペロンを強く支持していたカトリック教会との関係を悪化させ、ペロニスタによる教会の焼き打ち事件まで誘発した。経済低迷・言論弾圧や反カトリック政策などへの不満で起きた1955年の軍事クーデターで追放された。彼は同じく軍事独裁者のフランシスコ・フランコ将軍が君臨するスペインに亡命した[15][16][10][17]。各種軍部政権の変遷の後、1973年に再度ペロン大統領が就任したが、再就任した翌年に亡くなった[15][18]
軍事政権時代

1976年のクーデターにより軍事政権が再度成立した。以降から1983年までの最後の独裁政権の時代に成立した様々な法案も莫大な対外債務を発生させた原因の1つとされる。1982年4月?6月には フォークランド(マルビーナス)諸島紛争を起こした[10]



民政移管後

しかし、イギリスにフォークランド(マルビーナス)諸島紛争で敗北したことで軍事政権が崩壊し、 1983年12月にアルフォンシン大統領が就任(民政移管)した[19]

1990年代初頭に、政府はインフレを抑制するためにアルゼンチン・ペソを米ドルと同じ価値を持つ貨幣として制度改革をした他、無数の国有企業を民営化してその収入を国債の残高圧縮に回した[10]。1990年代のアルゼンチンは固定為替相場制度の一種であるカレンシーボード制度を採用していたが、2000年から2001年に、「アルゼンチン政府に対する信認の低下」で国外から債務危機の懸念が高まった。これにより、「海外への預金流出による金融危機」と「外貨準備高減少による通貨危機」が併発し、対外債務デフォルトに追い込まれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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