アルゼンチン独立戦争
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アルゼンチン独立戦争
イスパノアメリカ独立戦争

時1810?1818
場所アルゼンチンチリウルグアイパラグアイボリビア
結果アルゼンチン側の勝利、スペインの植民地支配からの解放、奴隷制の部分的廃止

衝突した勢力
独立主義者(英語版)
ラ・プラタ連合州
チリ王党派
リオ・デ・ラ・プラタ副王領
ペルー副王領
指揮官
マヌエル・ベルグラーノ
ホセ・デ・サン=マルティン
マルティン・ミゲル・デ・グェメス(英語版)  
フアン・ホセ・カステッリ(英語版)
ホセ・ヘルバシオ・アルティガス(英語版)
ウィリアム・ブラウン
カルロス・マリア・デ・アルベアル(英語版)

フランシスコ・ハビエル・デ・エリオ
ベルナンド・デ・ベラスコ(英語版)
ホセ・マニュエル・デ・ゴイェネチェ(英語版)
ペドロ・アントニオ・オラニェタ(英語版)
サンティアゴ・デ・リニエルス  
ビセンテ・ニエト(英語版)  

アルゼンチン独立戦争は、1810年から1818年の間に、マヌエル・ベルグラーノ、フアン・ホセ・カステッリ(英語版)、ホセ・デ・サン=マルティンに率いられたアルゼンチン独立主義者(英語版)軍とスペイン帝国王党派軍の間で戦われた。1816年7月9日、サン・ミゲル・デ・トゥクマンでの会合(英語版)において、アルゼンチン憲法(英語版)の条項と共に完全な独立宣言(英語版)が布告された。
背景

今日のアルゼンチンの領土は、ブエノス・アイレスを政府所在地(英語版)とするリオ・デ・ラ・プラタ副王領の一部であった。今日のウルグアイパラグアイボリビアもこの副王領の一部であったが、この独立戦争時に自治権を求め、後に独立国家となった。人口密集地は副王領の広さと低速な情報伝達によってそれぞれから隔てられていた。副王領の中で最も繁栄していた地域はアルト・ペルー(今日のボリビア)であったが、ブエノス・アイレスよりもサルタコルドバにより強い結びつきを持っていた。同様に、西部のメンドーサも、アンデス山脈が自然の障壁となったものの、チリ総督領(英語版)により強い結びつきを持っていた。対立関係にあったブエノスアイレス・アイレスとモンテビデオは両者ともラプラタ川流域(英語版)に位置し、海上通信手段で内陸の住民よりも欧州の思想と経済的発展と接触を持つことができた。パラグアイは他のすべての地域から隔てられていた。

政治機構の上層には、ペニンスラールとも呼ばれる本土の人間がほとんどの、スペイン王室から指名された者が、アメリカ現地民の問題や意向に深く配慮せずにあてられた。これにより、ラテンアメリカで生まれた白人であるクリオーリョと、本土から派遣されたスペイン人のペニンスラールとの間に対立を生じさせた。両者は共にスペイン人とみなされていたし、クリオーリョとペニンスラールとの間に法的な差は設けられなかったものの、クリオーリョのほとんどが、ペニンスラールが過度に政治的権力を持っていると考えていた。アメリカ独立革命フランス革命啓蒙思想はクオリーリョの社会変革への願望を強めた。スペインによる他国との禁輸政策も副王領の経済に対する損害と見られた。

ブエノス・アイレスの住民は英西戦争(英語版)時のイギリスのラプラタ侵略(英語版)の際に武装化された。ブエノス・アイレスは1806年に占領され、モンテビデオからのサンティアゴ・デ・リニエルス率いる部隊によって解放されたが[1]、反撃を恐れ、奴隷を含む軍務に適するべての住民が徴兵された。1807年の英軍の攻撃において、英軍はモンテビデオを占領したものの、ブエノス・アイレスでの戦いで敗北し、副王領を離れた。副王ラファエル・デ・ソブレモンテはこの戦争中にクリオーリョによって退位させられ、英軍の脅威が去ったのちもパトリキ連隊(英語版)が地方政治に強い影響を持つようになった。[2]

ブラジルへの宮廷の移転(英語版) は軍事的懸念を生じさせた。ポルトガルと同盟を結ぶイギリスの3度目の侵略も危惧されたが、半島戦争の開戦とともにスペインがポルトガル・イギリスと対仏同盟を結んだため、軍事衝突は発生しなかった。スペイン王フェルディナンド7世が捕らえられると、姉のカルロッタ・ジョアキナが摂政としてラテンアメリカを統治しようと試みたが、イギリス・スペイン人両者の支持を得ることができず不成功に終わった。モンテビデオでフランシスコ・ハビエル・デ・エリオによりフンタが設立されたことを受け、マルティン・デ・アルサガ(英語版)がブエノス・アイレスにおいてグーデターで同様の行為をしようと試みたが、現地軍が介入し阻止した。本国がバルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスを新副王に任命すると、リニエルスは軍の反対する提言を退け、無抵抗で政権を譲った。[3]
五月革命詳細は「五月革命 (アルゼンチン)」を参照五月革命 により副王は退位した。代わりに、最高議会(英語版)と呼ばれるフンタが政権を担った。

1810年までには本土ではスペイン軍は敗北を続けていた。フランス軍はイベリア半島のほとんどを占領し、セビーリャにまで至り、最高中央評議会が廃止された。何人かの会員は今だフランス支配下にないカディズへと逃れ、より絶対王政を支持する摂政評議会を設立した。この知らせがブエノス・アイレスに届き、五月革命が勃発した。市民の中には、廃止されたフンタに任命されたシスネロスの統治する権限を疑い、公開町会(英語版)の開催を求める声が出、軍の支持によりシスネロスに開催を認めさせた。この町会により、副王シスネロスを解任し、フンタをあてることが決定されたが、町会はシスネロスをフンタの大統領に任命し、権力を保持させようとした。このような行為が続いたため、直にフンタは廃止され、最高議会(英語版)が後任を担った。[4]

ブエノス・アイレスは副王領内の他の都市にこのフンタを承認し、使節を送ることを要求したが、使節が、フンタに参加するために送られるのか、議会を設立するために送られるのかどうかが不透明だったため、政治的衝突を引き起こした。始めこの要求はコルドバ、モンテビデオ、パラグアイ、アルト・ペルーといった全ての主要都市から拒否された。コルドバではサンティアゴ・デ・リニエルスがブエノス・アイレスを攻略するために軍を組織しており、モンテビデオはより強大な海上戦力を保持していた。アルト・ペルーではビセンテ・ニエルトがペルー副王ホセ・フェルナンド・デ・アバスカル・イ・スーサ(英語版)にアルト・ペルーの併合を要請していた。ビセンテは五月革命はブエノス・アイレス内で静まるだろうと考えていた。

摂政会議はブエノス・アイレスを反乱都市と宣言し、モンテビデオを副王領首都とした。副王にはフランシスコ・ハビエル・デ・エリオが任命された。これらのことに関わらず、五月革命は当初は分離主義的ではなかった。後の独立主義者たちは米大陸のフンタを支持し、王党派は摂政会議を支持していたが、両者ともフェルディナンド7世の代理として、王の不在時には主権は人民に帰すると考えていた。彼らが同意しない所はそれが適応される領土の範囲であった。王党派は本土のみに適応されるとし、スペイン帝国を統治する権限を与えられると主張し、一方五月革命の首謀者は帝国全土の都市に適応されると主張した。またホセ・ゲルバシオ・アルティガス(英語版)は、主権の譲渡は全地域に適応され、また連邦制により全地域は統治されるべきであると主張した。


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