アルゼンチンタンゴ
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ブエノスアイレス市内のタンゴ

アルゼンチン・タンゴは、ラプラタ川流域近辺[注釈 1]で演奏されるタンゴの一伝統様式を指す言葉である[1]
成立

もともとタンゴは四分音符と八分音符で構成されるリズム・パターンの一つであった。起源は1880年ごろと言われているが確実な証拠はない。これにヴァルスミロンガカンドンベフォックストロットなどのパターンも取り込み、ピアノバンドネオンヴァイオリンコントラバスの編成で楽団が組織されるようになって、タンゴはパターンからジャンルへ進化したと考えられている。
歴史
1900年代以降

タンゴの編成に固定されたものは全くなく、フルートヴァイオリンギタロン[注釈 2]バンドネオンという編成をとっていたのもファン・マグリオ[注釈 3]だが、当時の録音技術は劣悪でフルートは蚊が飛んでいるほどの音でしか取れなかった。このためフルートは早い段階で除去され、ギタロンではなくピアノ[注釈 4]に取って代わられた。またタンゴの速度も一定ではなく、ロベルト・フィルポ楽団は妙に速い吹き込みを行っている。このころの楽団は消滅したものも多く、ほとんどデータの残っていないオルケスタ・ティピカ・テレ-フォンのようなケースも多い。吹奏楽のタンゴというtubatangoといったものさえあった。Antologia del tango rioplatense. Vol. 1[2]では1907年から1920年までにはピアノロール、バレルオルガン、ヴァイオリンとマンドリンとギター、など様々な編成が試行されていた。Alonso-Minottoも採用しているテンポはかなり速いが、Duardo Arolasは倍近く遅くなるなど楽団によってテンポの増減が相当大きい。この時期はモダンタンゴで定番となった32分音符のバリアシオンはまだ表れていない。
1920年代以降

この時期、オデオン社は「五大楽団」を構えていた。フィルポ、カナロ、カロー、ロムート、フレセドの各楽団は次々とSP盤に吹き込んでは片っ端から音源化を行っていった。その一方でビクター社はオデオン社では抱えることの難しい若手を次々とスカウト[3]した。その典型例がオルケスタ・ティピカ・ヴィクトルだが、若手ばかりをかこっていたのではなく、フリオ・ポジェーロ楽団やファン・ギド楽団、マフィア=ラウレンス・バンドネオンデュオなど、古典タンゴの名手もビクター79000番台に録音を行い続けている。この時期のタンゴの録音の海賊版は2010年代になってもリリースが相次いでおり、いまだに聴取者の層が薄くならない。クラシックピアノをフェルッチョ・ブゾーニに師事しながら廃業し、タンゴに転身したアドルフォ・カラベリの耳が、いい加減な録音を逃さず光っていたという説もある。32分音符のバリアシオンでタンゴの終止に向かう様式が確立されたのは1920年代末期と推定されている。[注釈 5]

1930年代に入ると、和声や対位法やテクスチュアといった点に1920年代の伝統を打破する兆しが見え隠れするようになる。1920年までに活躍した楽団の差異を聞き取ることはかなり難しいが、20年代末期から30年代に入ると録音技術を利用したエフェクト[注釈 6]が次々と入ってくるようになり、どの楽団が演奏しているのかが明瞭になってくる。この変化が明瞭に表れているのがファン・ギド楽団である。テンポの遅さを維持していた1920年代に低迷していたのが、のちの巨匠ファン・ダリエンソである。カルロス・ガルデルがウルグアイに産み落とされた私生児であったことから、ウルグアイとアルゼンチンの文化対立はすでにこの時から始まっており、「ウルグアイ・タンゴ」と「アルゼンチン・タンゴ」を区別するべきという強硬派まで生まれている。

1920-30年代はSP蓄音機と音盤を入手できる一部の富裕層が「日本第一次タンゴブーム」を支えていたが、第2次世界大戦の勃発とともに「フランシスコ・ロムートのヌンカ・マスを死ぬ前に一回だけ聞かせてくれと頼んだ後に赤紙を受けた」人物や、「家が蓄音機もろとも爆撃で破壊された」人物とともにそのブームは終わった。
1940年代以降

アルフレド・ゴビフリオ・デ・カロカルロス・ディ・サルリに代表されるモダン・タンゴの時代が幕を開くことになる。伝統タンゴによって守られていたスピードは急激に上げられ、その限界に挑戦するファン・ダリエンソスタイルが一世を風靡する。この時代を決定づけるものは、録音技術の向上を意識した音楽様式の変化である。音色が立体的に造形されていることをレコードが初めてとらえるようになり、「極端なまでのレガートとスタッカート(Di Sarli)」・「リズムパターンの鋭い交代(De Caro)」・「楽器編成の拡張(Canaro)」・「ジャズのテンションコードの導入(Francini=Pontier)」、「楽器編成または音色の対比(Gobbi)」など、次々と新発明を施してはタンゴのイディオムを広げていった。この時期は競争が最も激しく、どこかの楽団に入っては出るを繰り返すといったメンバーも相当数に上っており、ダリエンソに至ってはダリエンソ以外全員脱退という事件も起こしている。ただし、このような楽団のメンバーの著しい変更こそがモダン・タンゴの起爆剤になったことは否定できず、このころ裏方の編曲に回って腕を磨いたのがオラシオ・サルガンである。タンゴに電子機器を用いることを決断したのがフランシスコ・カナロであり、カナロがハモンドオルガンを操っているジャケットや電子楽器を使ったと思われるテイクも存在する。

1944年にはオルケスタ・ティピカ・ヴィクトルが活動を終了し、古典タンゴの時代は終わったとまで称された。1950年代に入るとかつてのスペイン来訪で知られた国・日本が戦時統制の枷から抜け出し、自前のタンゴ楽団を抱え、タンゴ番組がラジオでかかり続けるという爆発的な流行を迎えた。演奏家の質も向上し、「オルケスタ・ティピカ・東京」・「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ[注釈 7]」は人気を博し、「オルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ[注釈 8]」は現地民の要求に合わせたアレンジ[注釈 9]が高い人気を国外でも誇った。彼らはタンゴの衰退期に入った1960年代に入っても活動をつづけ、あまりの出演過多に悩んだ坂本政一は日本へ帰国してタンゴ低迷期には忘れ去られたが、早川真平はそうなることを免れた。

この時期に入るとアコーディオンは完全に除去され[注釈 10]バンドネオンにとって代わるようになった。トロイロ=グレラ四重奏団は単なる偶然からできたバンドネオンソロ、ギタロン、ギター、コントラバスという編成[注釈 11]だが、ギターのタンゴ演奏の復活に大きく寄与した。もともとタンゴの終止にルールのようなものはなかったが、ダリエンソは音を丸々カット、プグリエーセは終止の前拍の強調、デ・カロはACCELを加えたそっけない打ち方、など各楽団ごとに個性がみられるようになる。ディ・サルリが1960年に死去したことで、タンゴの黄金期は終わりを迎えた。1950年代の「日本第二次タンゴブーム」もNHKのラジオ番組の打ち切りとともに終わった。
1960年代以降

エルヴィス・プレスリービートルズをポルテニアっ子が聞き出すようになると、タンゴの人気は激減する。この時期をタンゴ低迷期と呼ぶが、トロイロやプグリエーセ、ポンティエルの各楽団は録音点数をそれなりに残している。しかし、これらを「過度期のタンゴ」と呼んで敬遠するファンも多い。この時期に最も名をあげたのがアストル・ピアソラであり、1970年代から1980年代に入っても人気が衰えなかった一方で、反ピアソラ派の攻撃の対象にもなっていた。タンゴアルバムのパーソナリティ岡田寛[4]によると、日本ではほとんどが反ピアソラ派でほとんどの識者が固まっていたにもかかわらず、現地の人間は「これからはもうアストル・ピアソラだよ」と平然と答えていたことに衝撃を受けたらしい。SP時代のタンゴをLPに復刻してよい音で聞きたいという願望が強まったのもこの時期で、ファン・ダリエンソ楽団は新録に加えて旧録を売れるほどの需要があった。

この時期はフランシスコ・カナロのただ一度だけの来日公演が知られているほか、オスヴァルド・プグリエーセ楽団も初来日を果たしている。LP時代のアニバル・トロイロはSP時代のトロイロとは打って変わって歌手やピアノに名人芸を施すようになり、録音技術の精度の高さとともに過度期タンゴの折衷的な特徴を見事に表している。かつては人気のあったアルフレド・デ・アンジェリス楽団はこの時代の変化についていけず、録音点数が激減している。オラシオ・サルガンピアノヴァイオリンコントラバスバンドネオンエレキギターの五重奏に改組した「キンテート・レアル」の日本公演やそれに伴うスタジオ録音は、過度期タンゴではあるが前衛的な視点を失わなかった稀有な例として知られる。メンバー間の音の混濁を嫌ったサルガンならではの生存策であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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