アルジャーノン・シドニー(Algernon Sydney(Sidney), 1623年1月15日 - 1683年12月7日)は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの政治家・思想家・政治哲学者。ホイッグ党に属して共和主義を唱え、イングランド共和国や王政復古期イングランド王国に反対した。ライハウス陰謀事件で捕らえられ処刑されたが、著作を通して思想はイングランドとアメリカ合衆国憲法に大きな影響を与えた。 第2代レスター伯ロバート・シドニー 1642年、兄の下でアイルランド同盟戦争
出自
生涯
1659年にジェームズ・ハリントンが設立した政治クラブ「ロータ・クラブ(英語版)」に参加、ハリントンの共和主義思想に共鳴し彼の親友ヘンリー・ネヴィル(英語版)らと共にハリントン派(またはネヴィル・グループ)を結成、政界へ復帰してランプ議会で活動したが、同年に国務会議へ復帰、スウェーデン・デンマークの間を調停する使節団主席に選ばれデンマークのヘルシンゲルへ滞在したため、ロータ・クラブの活動に参加出来なくなった。デンマーク滞在中の1660年にイングランドで王政復古が起こり、即位したチャールズ2世への誓約を拒否したためイングランドへ戻れなくなり、以後17年間ヨーロッパ大陸へ歴訪に赴いた[1][2]。
この期間、グランドツアーで同じく大陸旅行していた甥のサンダーランド伯ロバート・スペンサーとウィリアム・ペンにイタリア・トリノで出会い、政治思想で共感したペンと友好関係を築いた。一方でイングランドでの反乱を計画していたという[3]。
1677年、父の死に際してチャールズ2世から帰国を許され、18年ぶりにイングランドへ戻った。しかしチャールズ2世と弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)に対する反対派に身を投じ、1670年にチャールズ2世がフランス王ルイ14世と結んだドーヴァーの密約非難に始まり、翌1678年のカトリック陰謀事件を機に本格的に活動を進め、1680年に王権神授説を正当化して絶対君主制を擁護するロバート・フィルマーの『パトリアーカ(英語版)』が公刊されると、『政体論』を発表して反論、議会への復帰も試みホイッグ党の所属で選挙に出馬した。