アルシンド
2011年3月、クリチバにて
名前
本名アルシンド・サルトーリ
Alcindo Sartori
ラテン文字ALCINDO Sartori
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 (1967-10-21) 1967年10月21日(56歳)
出身地メジアネイラ
アルシンド(Alcindo Sartori, 1967年10月21日-)は、ブラジル・パラナ州メジアネイラ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。ポジションはフォワード。
長男のイゴールもサッカー選手で2011年には鹿島アントラーズに所属。鹿島アントラーズで親子2代の外国籍選手は史上初。 CRフラメンゴの下部組織で育ち、1986年にトップデビューした。フラメンゴではジーコやジュニオールと共にプレーした。フラメンゴではポジションを得られず、1987年にフラメンゴがコパ・ウニオンを制覇した際には、ベベットやレナト・ガウショの控えとなった。 1987年にはU-20ブラジル代表の一員としてFIFAワールドユース選手権に出場。4試合すべてに出場して2得点を挙げている。 1990年にCRフラメンゴを離れ、サンパウロへ移籍した。しかし、サンパウロでのキャリアは非常に短く、翌年にはグレミオに移った。 グレミオで2シーズンを過ごした後、鹿島アントラーズが負傷離脱した石井正忠のポジションを出来る選手を鹿島が探していたことから[1]、ジーコから直に誘われ[2]、1993年に新たに設立された日本のプロサッカーリーグ、Jリーグのアントラーズに移籍。中盤の左サイドでの起用が想定されて入団したが、FWとして起用されることとなった[1]。開幕戦の名古屋グランパスエイト戦では2得点を挙げ、更にジーコのゴールをアシストして勝利した[3]。6月19日には再び対戦したグランパスエイトに対しハットトリックを記録するなど[4]、ゴールを量産。ジーコが負傷離脱した中、サントスと共にサントリーシリーズ優勝の原動力となった。また、プレーのみならず、独特の風貌も注目を集め、テレビ出演やコマーシャル出演するなど一躍時の人となった[5]。1994年のチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗れたが、この時挙げたゴールを自身のベストゴールの一つに挙げた[6]。鹿島では71試合の出場で50ゴールを記録した。 しかし、契約更新の際、金銭面の問題を巡ってフロントと対立し、ヴェルディ川崎へと移籍した[3]。V川崎に移籍して1シーズン目は19得点を記録、セカンドステージ優勝をしたものの、V川崎でも契約更新の際、金銭面の問題を巡って1年で退団[3]。翌1996年はジャパンフットボールリーグのコンサドーレ札幌へ移籍した。しかし、4月28日の富士通川崎戦で判定を不服とし審判に対し15回に渡って「バカ」と罵倒、4試合の出場停止処分を受け、さらに6月9日の大塚製薬戦で再び退場処分を受けると、その責任を感じ同チームを退団[3]。コリンチャンスへ移籍した。翌1997年、再びヴェルディ川崎に戻り、その年は出場16試合で10得点した[3]。 キャリアの終盤には、カボフリエンセとジーコが設立したCFZでプレーした。 引退後はブラジルに帰国し、父の農場経営を引き継いだ[7]。
経歴
タイトル
CRフラメンゴ
リオデジャネイロ州選手権:1回(1986)
グアナバラ杯:2回(1988、1989)
リオ杯:1回(1986)
リオデジャネイロスポーツ記者協会杯:1回(1986)
リンフィールドFC百周年杯:1回(1986)
コパ・ウニオン、モドゥロ・ヴェルデ:1回(1987)
Taca Euzebio de Andrade:1回(1987)
Torneio EL Gabon:1回(1987)
Torneio Internacional de Angola:1回(1987)
Trofeu Joao Havelange:1回(1987)
Taca Governador Jader Ribeiro:1回(1988)
トロフェオ・コロンビーノ:1回(1988)
キリンカップ:1回(1988)
Copa Porto de Hamburgo:1回(1988)
Trofeu Classico das Multidoes:1回(1989)
Trofeu Seis Anos da Rede Manchetes de Televisao:1回(1989)
マールボロ・カップ:1回(1990)
コパ・ド・ブラジル:1回(1990)