アルザス語
Elsassisch, Elsasserditsch
話される国 フランス
地域アルザス地域圏
民族アルザス人
話者数70万人?170万人
言語系統インド・ヨーロッパ語族
ゲルマン語派
西ゲルマン語群
高地ドイツ語
上部ドイツ語
アレマン語
低地アレマン語
アルザス語(アルザス語: Elsassisch, Elsasserditsch、標準ドイツ語: Elsassisch, Elsasserdeutsch、フランス語: Alsacien)は、フランス北東部のアルザス地方で使用されるドイツ語系(アレマン語系)を祖語とするアルザス人によって話される一方言。アルザス地方では人口の43%が現在も流暢なアルザス語を話す[1]。
アルザス地方がこれまで独仏の間の抗争にある故にフランス国内にあるドイツ語系の言語という複雑な事情を持ち、戦後のフランス語教育の強化などが相まって絶滅に瀕した言語となっている[2]。
日本では「最後の授業」に関する論争で一時的ではあるが注目された[2]。
概要(ドイツ語版)に属する上ライン・アレマン語(ドイツ語版)の一方言でそれを基盤としながらライン・フランケン語の特徴を組み合わせた都市方言となっており、地元のアルザス人によって話されている。アルザス・ドイツ語とも呼称される[2]。
また、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州の東部にあるシュヴァーベン地方で使用される方言よりも、西部にあるシュヴァルツヴァルト(黒い森)を含むバーデン地方に属するスイス国内で使用される方言に近い。
アルザスと言われるバ・ラン県とオ・ラン県で使用されているゲルマン系方言を一般的にアルザス語と呼ぶがアルザス語というのは平準化された均一な言語ではなく現在の位としては方言である[2]。
歴史詳細は「アルザスの歴史」を参照
451年にアレマン人の手によって古代ローマ帝国の要塞都市アルゲントラトゥム(現ストラスブール)が壊滅的に破壊される戦いが発生した。そしてストラスブールを中心にアレマン人はアルザスに定住した[3]。
496年にアルザス地方はフランク王国王クローヴィス1世によって征服された。そこでアルザス地方のアレマン人は独自の文化を形成していった。そしてその一つとして西ゲルマン語系アレマン語からの派生としてアルザス語が誕生することとなった[3]。
その後1230年頃にザンクト・ゴットハルト峠が開通し、ライン川の水運を利用しヨーロッパの南北を商業ルートの核としてアルザス地方は大発展した。また2世紀頃から行われていたアルザス地方のワイン生産も最盛期を迎えようとしており、この大きな利益を生むアルザス地方をめぐり仏独は抗争を続け、それがアルザス語にも大きな影響を与えることとなる[3]。一方で「阿呆船」には「その文化的輝きの絶頂に達していた」という文章がある[4]。
一方でフランス語がその当時においてもアルザス地方に浸透していたかというと疑問である。おおよそアルザスの西側の境目を作り上げているヴォージュ山脈によって言語の境界が9世紀頃にはもう作られていたと思われている[5]。
1648年にヴェストファーレン条約が結ばれ、正式にアルザスの大半はフランスのものとなり、公用語としてフランス語が導入されるようにな った。しかし、この段階ではフランス語はあくまで上層階級のものであり、民衆たちの間では依然としてドイツ語系の言語が幅を利かせていた。それはアルザス語もそうである[3]。
そしてその後フランス人となったアルザス語話者たちはフランス革命やナポレオン戦争の中で戦いながらも、普仏戦争、ナチス・ドイツによって2度アルザスはフランスのものとなる。ドイツ帝国統治下ではアルザス地方の公用語に再びドイツ語が用いられることになったわけだが、2言語使用の是非や言語対立が生まれた。その後フランスのもとへ返還されると当然であるがドイツ語は捨てられフランス語が重視されるようになるわけだが、それによってアルザス方言も政策上軽視されるようになり政府とアルザス語話者の間に出来た対立は深くなった。ナチス政権下ではフランスチックなものはすべて排除されるようになった。その中には言語ももちろんありフランス語も排除されていった[3]。
ナチス政権下のアルザス=ロレーヌにおいては当たり前ではあるがドイツ語やアルザス語の勉強などもできるわけだが、フランス全体で見ても言語として大きな出来事が起きる。ナチスの傀儡国家のヴィシー政権のフランスが学校で正規の授業時間外に、地域言語を選択で教えることを表明したのだ。フランス人はフランス人としてのアイデンティティを、フランス語を保存し芙しく話すことに閥いているという面や、当時の教育面でも地域言語が抑圧されている当時のフランスにおいてこれは地域言語(母語)の復権がなされたということである[6]。 話者数は年で言うと以下のような数であり[7]、全体的に人数は減少傾向にあるが、若干回復している[8]。割合数値で見ても現在がアルザス地方の43%が使っているのに対して、第一次世界大戦以前までは94%もあったため減少してることがわかる[9]。フランス国内で言えば1.44%が地域言語として使っており地域言語としては最も多いのだが、いずれにせよ減少傾向にある(フランスの言語参照)。 地域ごとにみると1993年に調べられた情報を基にすると上アルザス(オー=ラン県)で言うと、都市ミュルーズで児童の2%、県庁所在地コルマールであっても児童の4%しかアルザス語の知識を有していない。他であってもゲブヴィレール、タンで7%程度である[4]。 アルザスを代表する作家アンドレ・ヴェックマンは下のようなまさにこの話者数を物語るような詩を書いている[4]。 「歌われなくなれば、歌がどんなに愛しいのか誰が知ろうか。 撫でられなくなれば、肌がどんなに柔らかいのか誰が知ろうか。理解されなくなれば、故郷がどんなに暖かいのか誰が知ろうか。」 長年のフランスによる支配からアルザス語は他のドイツ語方言に比べて、フランス語からの外来語が多くならざるを得なかった。例えば、「雨傘」を意味する語は標準ドイツ語の Regenschirm とは大きく異なり、フランス語の parapluie の訛った形である Barabli であることが指摘される。
問題
話者数
1985年 - 130万人
1999年 - 548000人(INSEE調べ・成人話者のみ)
2004年 - 54.5万人
2011年 - 100万以上
?(Finck/Weckmann /Winter 1981: 108)
要因