この項目では、古代ギリシアの科学者について説明しています。その他の用法については「アルキメデス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
シラクサのアルキメデス
希: ?ρχιμ?δη?
ドメニコ・フェッティ1620年画
『Archimedes Thoughtful』
生誕紀元前287年頃
シチリア島・シラクサ
(マグナ・グラエキアの自治植民都市)
死没紀元前212年(75歳前後)
シチリア島・シラクサ
居住シチリア島・シラクサ
研究分野数学、物理学、工学、天文学、発明
主な業績アルキメデスの原理、アルキメディアン・スクリュー、流体静力学、 てこ、無限小
プロジェクト:人物伝
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アルキメデス(Archimedes、希: ?ρχιμ?δη?、紀元前287年? - 紀元前212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。
生涯ベルリンのアルヒェンホルト天文台にあるアルキメデスのブロンズ像。ゲルハルト・ゲルダ作、1972年公開
アルキメデスの生涯は、彼の死後長い年月が過ぎてから古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、判然としない部分が多い。友人のヘラクレイデスが、彼の伝記を書き残したといわれるが、散佚したため断片しか伝わっていない。しかし、没年については例外的に正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、故事の記述からわかっているからである。彼の生年は分かっていないため、没年から逆算して求められたものである。
シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『普遍史』には、70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが引用している。この書では、アルキメデス個人についても若干触れ、街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している[1]。
アルキメデスは紀元前287年頃、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア(シチリア)島のシラクサで生まれた。この生年は、ビサンチン時代のギリシア
(英語版)の歴史家イオニアス・セツィス(英語版)が主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている[2]。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者[3]「ペイディアス[4] (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している[5]。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある[4]。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論(英語版)』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある[注釈 1]。アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスがシラクサを占領した時に死んだ。
アルキメデスの評判を知っていたマルケッルスは、彼には危害を加えないよう命令を出したが、自宅にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂盤[注釈 2]に描いた[3]図形(英語版)の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していた彼が無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺した[6]という。
アルキメデス最期の言葉は「私の円をこわすな!(Noli turbare circulos meos!(英語版))」とされる。マルケッルスは命令に反してアルキメデスが殺されたことに苦しんだと伝わる[7]。
アルキメデスの墓は、彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの雄弁家(英語版)マルクス・トゥッリウス・キケロがクァエストルとしてシチリアに勤めていた頃、アルキメデスの墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にシラクサのAgrigentine門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。キケロが墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになった[8]。 最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠
発見と発明風呂場で「アルキメデスの原理」を考えつくアルキメデスは浮力の原理を用いて黄金の王冠が純金よりも密度が低いか否か判断したと言われる。
黄金の王冠
もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた[9]。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。
何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは[10]、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ(η?ρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ[11]、不正がばれた金細工師は、死刑にされた。
この黄金の冠の話は、伝わっているアルキメデスの著作には見られず、アルキメデスが没してから約200年後、ウィトルウィウスが著した文献『デ・アーキテクチュラ』に記述されているエピソードである。さらに、比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないという疑問も提示されている[12]。