アリー・アブドッラー・サーレハ
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アリー・アブドッラー・サーレハ
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アリー・アブドッラー・サーレハ(2004年)
イエメン
初代 大統領
任期1990年5月22日 – 2012年2月27日
副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー
イエメン・アラブ共和国
第6代 大統領(英語版)
任期1978年7月18日 – 1990年5月22日
イエメン・アラブ共和国
副大統領
任期1978年6月24日 – 1978年7月18日

出生 (1947-03-21) 1947年3月21日
イエメン・ムタワッキリテ王国、アル=アフマル(英語版)
死去 (2017-12-04) 2017年12月4日(70歳没)

政党国民全体会議
出身校北イエメン王立士官学校
北イエメン軍事アカデミー
現職軍人政治家
配偶者アサマ・サーレハ
宗教シーア派ザイド派

アリー・アブドッラー・サーレハ(アラビア語: ??? ??? ???? ????, ラテン文字転写: ?Al? ?Abdull?h ??li?、1947年3月21日[1][2][3] - 2017年12月4日)は、イエメン共和国政治家。同国大統領(初代)を務めた。
概要

北イエメン共和国(イエメン・アラブ共和国)の陸軍総司令官を経て北イエメン共和国大統領となり、 1990年の南北イエメン統合によって統一政府の初代大統領に選出される。北イエメン時代を含めれば1978年から2012年まで34年間にわたり国家指導者の立場にあった[4]。よって北イエメン大統領時代からカウントすれば、在任年数で赤道ギニアテオドロ・オビアン・ンゲマ大統領を上回り、2012年の退任時点で世界最長政権を率いる人物であった(君主を除く)。

2011年12月22日に事実上、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに大統領権限を移譲。退任後もイエメン軍元帥、及び国民全体会議党首として一定の影響力を維持し、反政府勢力フーシと連携して、ハーディー大統領派と事実上の内戦を戦うも、その後決裂してフーシに殺害された[5]

軍人としては北イエメン軍の総司令官を務め、その後統合された南北イエメン軍でも陸軍元帥の名誉称号を与えられた。こうした軍との深い関係が権力掌握における重要な後ろ盾となった。
人物

イエメン・ムタワッキリテ王国のアル=アフマル市に生まれる[1](サナア県バイト・アル=アフマル村とするものもある[6])。同地はハーシド氏族(英語版)の統治する地域で、サーレハ家はシーア派ザイド派)を信仰するアラブ系イエメン人であった[1]。ザイド派はイエメンでは主流とされているイスラム教宗派だが、サーレハ家は厳密にはさらにその中でも少数派の宗派に属しており、ザイド派の多数派が伝統的に王侯貴族を独占していた北イエメン王国のザイド・イマーム制では国政に関わる権利を持たなかった[7]

1958年、サーレハは中等教育を途中で放棄すると北イエメン王国軍に入隊して兵士となった。1960年には北イエメン王立士官学校で学び[8]、下士官として伍長に昇進した[1]。北イエメン革命ではアブドゥッラー・アッ=サッラール(英語版)大佐らの軍事クーデター(北イエメン革命)に賛同し、革命終了後に北イエメン共和国軍少尉に昇進する[8]
経歴
北イエメンでの独裁ジョージ・ブッシュ米大統領と談笑するサーレハ

共和国政府と王党派の亡命政府による北イエメン内戦が始まると各地を転戦して昇進を重ね、1977年にアフマド・ビン・フセイン・アル=ガシュミー(英語版)大統領からタイズ県の軍司令官に任命される[1]

1978年6月24日、ガシュミー大統領が暗殺されると臨時召集された最高行政委員会の一員として事態収拾にあたり、また若手将校ながら幕僚会議議長代理として軍参謀本部を統制した[8][1]。7月17日、軍を押さえたサーレハは最高行政委員会から北イエメン共和国第6代大統領に任命され、国家元首として陸軍総司令官および陸軍参謀総長を兼任する事を宣言した[8]。これが北イエメン共和国議会の承認を伴ったかは議論がある。

自らへの暗殺未遂として30名の将校を処刑するなど軍内で大規模な粛清を行い[1]、軍人としても陸軍大佐に昇進するなど影響力を強めていった。軍権力を後ろ盾にした独裁が危惧される中、1期目の任期終了後にサーレハは諸政党を翼賛的に合流させる構想を発表。1982年8月30日に自身が党首を務める翼賛連合「国民全体会議」を組織し、同党により2期目を共和国議会に承認させた[8]

これ以降、実質的に議会は国民全体会議一党独裁状態となり、党首であるサーレハの独裁体制が継続していくことになる。
イエメン統合後

隣国の南イエメン共和国ではソ連からの支援が途絶えた事で物資不足や国力の低下が進み、冷戦終結が目前に迫った1990年頃から北イエメンとの統合議論が本格化していた。サーレハもこの構想に前向きな姿勢を見せ、南イエメンの実質的な指導者である南イエメン社会党書記長アリー・サーリム・アル=ベイド(英語版)との交渉を行った。両者の協議でイエメン統合後の新政府ではサーレハが大統領、アリー・サーレムが首相および副大統領に就任する事などが決定された[9]。1990年5月22日、イエメン統合によりサーレハは初代イエメン大統領に就任した。

1990年8月2日、湾岸戦争が勃発すると、サーレハは同じアラブ協力会議の加盟国であるヨルダンフセイン1世とともにイラクのフセイン政権と戦うことを拒否し、国際社会のみならず、アラブ諸国の非難を受けた。抗議としてクウェート政府は国内のイエメン人労働者を全て国外追放処分にした[10]

1993年、統合政府としては初めてとなる総選挙(英語版)が行われ、旧・北イエメンの翼賛政党である国民全体会議が全体議席の3分の1以上となる301議席中122議席を獲得した[11]:309。北イエメン時代には及ばないものの、統合イエメンにおいてもサーレハが強大な権限を有している事を示した。

1994年5月4日に北イエメン派の主導する統治に反感を抱いた副大統領アリー・サーリム・アル=ベイドは再分離を主張してイエメン内戦を引き起こすが、サーレハは2か月間の戦いを経て反乱軍を鎮圧した。


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