アリー・アッ=リダー
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イマーム・アリー・ムーサー・アッ=リダー(アラビア語: ??? ?? ???? ????? Im?m ?Al? ibn-M?s? al-Ri??; 766年1月1日 - 818年5月26日)は、シーア派十二イマーム派の第8代イマーム。名はアリー・イブン・ムーサー・イブン・ジャアファル。ペルシア語ではエマーム・レザーとして知られる。
目次

1 誕生と生涯

2 死去

3 イマームの伝承

4 脚注

5 外部リンク

誕生と生涯

アリー・アッ=リダーはシーア派7代イマーム・ムーサー・イブン・ジャアファル・イブン・ムハンマド・アル=カーズィム(ペルシア語ではエマーム・ムーサー・カーゼム)とウンム・アル=バニーン・ナジュマーのあいだにマディーナで生まれた。ちょうど祖父ジャアファル・アッ=サーディクの死の一月後にあたり、アリーは父の手で教育された。

799年、アリー35歳のとき、父が没しイマームを継いだ。アリーは時のアッバース朝カリフハールーン・アッ=ラシードから好ましく扱われることはなく、マディーナの人々もアリーのもとを訪れ、学ぶことを禁止された。ハールーン・アッ=ラシードはアリーの殺害さえ試みたものの、これは不首尾に終わっている。

ハールーン・アッ=ラシードの死後、アッバース朝の支配権を巡って彼の二人の息子間で内戦がはじまる。息子の一方のアミーンアラブ人の母を持たためアラブ人の支持を得て、一方異母兄マアムーンペルシア人の母を持ち、ペルシア系の人々の支持を受けてのものであった。マアムーンはペルシア系の人々はハーシム家に対し好意的であると考え、アリーに対し、ペルシアに赴き謁見するよう命じた。アリー・アッ=リダーは妻と一人息子ムハンマド・タキーを残して、マルヴに立った。

アミーンを倒すと、マアムーンはアリー・アッ=リダーを自身の後継者に指名した。シーア派からの支持を得ようとしてのものであったが、このカリフ継承はアリー・アッ=リダーがマアムーン死亡時に存命であることが条件となっていた。マアムーンはアッバース朝の黒旗を初代イマーム・アリー以来のアリー家伝統の緑色へと変更することさえ行っている。
死去

アリー・アッ=リダーはしかしマアムーンよりも早く818年5月26日、マアムーンとともにトゥースにあったときに亡くなった。後世の学者には、これをマアムーンによる毒殺であると見る者もおり、シーア派ではこの見解をとってアリーを殉教者と考える。アリー・アッ=リダーの遺骸が葬られた地、今日の都市マシュハドの名は「マシュハデ・レザー」(リダーの殉教地)に由来するものであり、巨大なアリー・アッ=リダー廟とその複合施設(アースターネ・クドゥス)を持ち、現在でも多くの巡礼を集める地となっている。
イマームの伝承

イマーム・リダー(彼の上に平安あれ)が言った。

「アッラーのために愛し、アッラーのために嫌い、アッラーのために喜捨を差し出す者は、すなわち信仰が完璧な人々の一人である」 [1]


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