アリヤ・イゼトベゴヴィッチ
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アリヤ・イゼトベゴヴィッチ
Alija Izetbegovi?

アメリカ合衆国1997年に訪問した際のイゼトベゴヴィッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ
初代 大統領
任期1992年3月3日1996年3月14日
ボスニア・ヘルツェゴビナ
初代 大統領評議会 ボシュニャク人代表
任期1996年3月14日2000年10月14日
元首アリヤ・イゼトベゴヴィッチ
ジヴコ・ラディシッチ
アンテ・イェラヴィッチ
アリヤ・イゼトベゴヴィッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ
初代および第4代 大統領評議会議長
任期1996年3月14日1998年10月13日
2000年2月14日 ? 2000年10月14日

出生1925年8月8日
セルブ・クロアート・スロヴェーン王国ボサンスキ・シャマツ
死去 (2003-10-19) 2003年10月19日(78歳没)
ボスニア・ヘルツェゴビナサラエヴォ
政党民主行動党
配偶者ハリダ・レポヴァツ

アリヤ・イゼトベゴヴィッチ(ボスニア語:Alija Izetbegovi?、1925年8月8日 ? 2003年10月19日)は、ボシュニャク人活動家で、弁護士作家哲学者政治家であり、1990年ボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領となった。イゼトベゴヴィッチは1996年まで大統領職を務め、その後ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会の一員となり、2000年までその地位にあった。イゼトベゴヴィッチはまた、多くの著書を残しており、特に『イスラム宣言』(The Islamic Declaration)などが知られる。
初期

アリヤ・イゼトベゴヴィッチは1925年、当時セルブ・クロアート・スロヴェーン王国の一部だったボスニア・ヘルツェゴビナ北部のボサンスキ・シャマツにて生まれた。著名であったが没落した家系の出身であった。

イゼトベコヴィッチ家はベオグラードオスマン帝国貴族であったが、セルビアがオスマン帝国から独立したためにボスニアに逃れていた。アリヤ・イゼトベゴヴィッチの祖父アリヤは、ボサンスキ・シャマツの市長であった。

アリヤ・イゼトベゴヴィッチの父親は会計士であったが、1927年に破産を宣告され、彼の家族はサラエヴォへと移った。1930年代から1940年代にかけて、アリヤ・イゼトベゴヴィッチはボシュニャク人社会の一員として育った。信心深い家庭とムスリムとしての教養により、彼は確固たる教育を受け、サラエヴォにて法学校を卒業した。このとき、彼は青年ムスリム団に加わった。第二次世界大戦の間、イゼトベゴヴィッチはいかなる軍事組織にも加わることはなかった。戦後、イゼトベゴヴィッチは1946年に逮捕され、反共産主義活動の疑いで懲役3年を言い渡された。釈放後、イゼトベゴヴィッチはサラエヴォ大学にて法学の学位を取得し、政治への参加を続けた。
反体制活動「en:The Islamic Declaration」も参照

1970年、イゼトベゴヴィッチは『イスラム宣言』(The Islamic Declaration)と題する声明書を発表した。このなかで、イゼトベゴヴィッチはイスラムと国家、社会に関する自身の見解を表明した。ユーゴスラビアの当局はこの宣言書をボスニアにおけるシャーリア法であるとの見解を示し、出版を禁じた[1]

後に、この宣言書はセルビア人の民族主義者によって戦争の口実として使われた。彼らは本書を引用し、ボシュニャク人がボスニアに、イランのようなイスラム国家を設立しようとしていると主張した[1]ボスニア紛争が続いた1990年代、宣言書がイゼトベゴヴィッチに反する立場の人々によって頻繁に引用されるようになってから、本書はイスラム原理主義の見解を示したものと見なされてきた[2]。こうした見解はジョン・シンドラー(John Schindler)等の一部の西側諸国の人々にも共有された[3]。しかし、イゼトベゴヴィッチはこうした見解を強く否定している[1]

イギリスの著者ノエル・マルコルム(Noel Malcolm)は、セルビア人民族主義者による本書に関する主張を「誤ったプロパガンダ」であるとし、本書を丁寧に読むことを薦めた[4]。マルコルムは本書を「政治とイスラムに関する一般的な指針を示したものであり、全てのイスラム世界に向けられたものである。これはボスニアについて述べたものではなく、ボスニアは本書では触れられてすらもない。…引用される箇所はいずれも、原理主義的なものではない」とした。マルコルムは、イゼトベゴヴィッチの視点は、後の著書『西と東のイスラム』(Islam between East and West)で熟考されて述べられているとし、そこで「彼はイスラムを、西ヨーロッパ諸国の価値を含む、精神的・理知的なジンテーゼとみなしている」とした。この功績により、1993年キング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門受賞。

宣言書は現在も論争の的となり続けている。またイゼトベゴヴィッチの著書は二元論的であると指摘されている[5]
投獄

1983年4月、イゼトベゴヴィッチとその他の20人のボシュニャク人活動家、メリカ・サリフベゴヴィッチ(Melika Salihbegovi?)、エドヘム・ビチャクチッチ(Edhem Bi?ak?i?)、オメル・ベフメン(Omer Behmen)、ムスタファ・スパヒッチ(Mustafa Spahi?)、ハサン・チェンギッチ(Hasan ?engi?)はサラエヴォの裁判所で裁判にかけられた。「敵対行動」、特に「ムスリム民族主義に影響を受けた敵対活動」、「敵対活動を目的とした共謀」、「敵対的プロパガンダ」の容疑であった。とりわけ、起訴された者たちは「民族的に純粋なムスリムのボスニア・ヘルツェゴビナ」を創設することを目指していたとされた。イゼトベゴヴィッチは更に、イランでのムスリム会議に参加したことでも訴追された。彼らは全て有罪と認定され、イゼトベゴヴィッチは懲役14年を宣告された。有罪判決は、アムネスティ・インターナショナルヒューマン・ライツ・ウォッチなどの西側の人権組織から強く非難され、この事件は共産主義者によるプロパガンダに基づいており、起訴された者たちはいかなる暴力を使ったことも擁護したこともないとした[6]。続く5月には、ボスニア上級裁判所は、「被告の行動の幾らかは、犯罪活動としての性質を有さず」とし、イゼトベゴヴィッチの懲役を12年に減刑した。1988年、共産主義による統治が失墜すると、イゼトベゴヴィッチは恩赦を得て釈放され、ほぼ5年間に及んだ投獄生活を終えた。イゼトベゴヴィッチの健康状態はひどく害されていた[6]
大統領

1980年代の末、ユーゴスラビアに複数政党制が導入されると、1989年にイゼトベゴヴィッチとその他のボシュニャク人の活動会は、政治政党 民主行動党(Stranka Demokratske Akcije, SDA)を設立した。民主行動党はムスリム的特長を持っており、同様にボスニア・ヘルツェゴビナの他の民族、すなわちクロアチア人セルビア人も、それぞれの民族に基づいた政党を設立した。共産党そのものは民主改革党と改称した。


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