アリヤバータ
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「アーリヤバタ」のその他の用法については「アーリヤバタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
アーリヤバタが学究生活を送ったと推定されるナーランダー大学跡(世界遺産

アーリヤバタ(IAST: ?ryabha?a、476年3月21日 - ?)は、古典期インド天文学者数学者[1][2][3]。著作に『アーリヤバティーヤ(英語版)』(499年)と『アーリヤシッダーンタ』がある[1][4]。各種の天文常数や円周率などの定数の精密化、ギリシア数学(英語版)を取り入れたインド数学の発展、インドの数理天文学の開拓といった業績がある[1][2][3]
呼び名

10世紀の同名の数学者と区別する必要がある場合はローマ数字のIを付加してアーリヤバタI(Aryabhata I)と表記する[1]。また、出身国とされる国の名前を取って、アーシュマキーヤとも呼ばれる[1][4]。現代のラテン文字による文献においては、"?rya-" に "-bha??a" の接尾辞を繋げて、"?ryabha??a" と綴る例があり、インド共和国最初の人工衛星の名称もその綴りとされた[4]。サンスクリットの接尾辞 "-bha?a" は「金で雇われた人、傭兵」などの意味である一方で、"-bha??a には「教養のある人、学者」などの意味がある[5]:vii-viii。したがって、"?ryabha??a の方が尊敬の意味合いが込められているのであるが[5]:vii-viii、ヴァラーハミヒラ、バースカラI、ブラフマグプタその他、前近代の文献においては一貫して ?ryabha?a である[4][5]:vii-viii。したがって、"?ryabha??a の綴りの妥当性は疑わしい[4]。なお、日本語文献においては、アーリヤバタとカナ表記する場合もある[3][6]
前半生アーリヤバタが生きた時代より少し前のグプタ朝の版図とパータリプトラ、ウッジャインの位置

アーリヤバタが活動したのは、西暦紀元500年前後のグプタ王朝である[1][7]。グプタ朝においては、西方世界との文化的接触に影響を受けて、ヴェーダ時代の天文・数学が復活した[1][7]。5世紀から10世紀ごろまでのインド数学研究の中心地は、クスマプラ、ウッジャイニーマイソールにあり、アーリヤバタが活躍したのはクスマプラである[1]。クスマプラとは、グプタ朝の首都であったビハール州パトナのことで、5から6世紀に繁栄を極めたナーランダー僧院があった[1][4]。ナーランダー僧院には大きな天文台があり、アーリヤバタは同僧院の院長であったとみられる[1][4]

『アーリヤバティーヤ』の第3章には「世界がカリ・ユガに入って以来3600年になるこの年、23歳でこれを書いた」という趣旨の記述がある[4][8][9]。カリ・ユガ紀元3600年は西暦紀元499年に当たるため、アーリヤバタの生年は西暦476年と推定されている[4][8][9]。アーリヤバタの生誕地について、19世紀の古い研究では、断片的な詩行の解釈に基づいてクスマプラ生まれではないかと憶測されることもあったが[注釈 1]、20世紀以後の研究では、『アーリヤバティーヤ』に注釈した7世紀の数学者バースカラI(英語版)がアーリヤバタをアーシュマキーヤと呼んでいることから、アシュマカの生まれであると考えられている[1][4]。アシュマカはガウタマ・シッダールタが生きた時代のアッサカ国にあたる地域である[4]ケーララ学派の数学者たちが、アーリヤバタはケーララからクスマプラに招聘されたという説を唱えることがあったが、『アーリヤシッダーンタ』がケーララに伝わっていないことなど、総合的な観点から疑わしい[4]

後期グプタ王朝の王の一人ブダグプタは、『大唐西域記』巻九で玄奘が護法の王「仏陀毬多」の名で伝えるマガダ国の王と同一人物であると考えられる[10]。鋳造貨幣の刻印を根拠に確認できるブダグプタの統治年代の最も遅い年が西暦494年、他のグプタの王名が現れる碑文史料が指し示す直近の年代が510年であり[10]、アーリヤバタが『アーリヤバティーヤ』を著したのが499年であることから、アーリヤバタがクスマプラにて活動した時期は、ブダグプタの治政下であったと推定される[1]。後期グプタ王朝の歴史については衰退ないし分裂したであろうことは明らかであるが、不明な点が多い[10]。しかしながら、エーラン(英語版)の石柱碑文、ダーモーダルプルの銅板銘文、マトゥラー出土の仏彫碑文などの証拠に基づくと、ブダグプタ時代のグプタ朝の版図は、東は北ベンガル、西はマールワー地方、北はカナウジ国あたりまで回復しており[10]、南はナルマダー川流域あたりでヴァーカータカ朝(英語版)と接していた[11]

したがって、デカンのアシュマカは当時、グプタ朝の版図外にあり、アーリヤバタはそのようなところから、わざわざゴーダヴァリー川ナルマダー川を渡河してクスマプラに来たと考えられる[4]


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