タランタスのアリストクセノス(?ριστ?ξενο? ? Ταραντ?νο?: Aristoxenus of Tarentum ; b. c. 375, fl. 335 BCE)は逍遥学派の哲学者。アリストテレスの門下生であった。哲学、倫理学、音楽に関する著作が多数あったようであるが、そのほとんどは失われた。唯一音楽に関する論文『ハルモニア原論』(Greek: ?ρμονικ?ν στοιχε?ων; Latin: Elementa harmonica)が、不完全ながらも現伝する。その他に、リズムとメトロスに関する著作断片も伝わっている。古代ギリシアの音楽に関する現代の知見の多くが、この『ハルモニア原論』に依拠している。[1] 『スーダ辞典』によると、アリストクセノスはイタリア半島の南端部、タランタス(現代のターラント)に生まれ、父はムネシアス(Mnesias)という名で、スピンタロス(Spintharus)とも呼ばれていた[2]。父ムネシアスは哲学を学んだ音楽の専門家であった[2]。アウルス・ゲッリウスによると、アリストクセノスは最初、父から音楽の手ほどきを受けたあと、エリュトライのランプロスやカルキディケーのクセノピロスといったピュタゴラス派の哲学者の下でも音楽を学んだ[3]。しかし、ピュタゴラス派の教えだけでは飽き足らず、最終的にアリストテレスの門人になった[2][3][4]。『スーダ辞典』によると、アリストクセノスはアリストテレスが亡くなったあと、繰り返し彼を侮辱したという[2]。『スーダ辞典』によると、その理由はアリストテレスがリュケイオン学園の後継者に、アリストクセノスではなくテオプラストスを指名したためである[3]。アリストクセノスはその地位を切望しており、門下生の中でも特に秀でた才能であることを常日頃示してきたにもかかわらずアリストテレスからその仕打ちを受けたので、恨みを抱いた[2]。ただし、この説は、「アリストクセノスは師アリストテレスに言及するとき、必ず最大級の賛辞をした」というメッセネのアリストクレスが伝える話と矛盾する。アリストテレスとの決別以後のアリストクセノスの足跡は、『ハルモニア原論』における自著への言及を除くと、まったくの不明である[5][6]。 アリストクセノスの著作は全部で453巻あったと言われており[2]、哲学、倫理学、音楽の分野に属するテーマを扱い、アリストテレスの様式でまとめられていたとされる。しかしながら、現伝するものは音楽理論に関する『ハルモニア原論』3巻本のみである。残された3巻も全体ではなく一部にすぎない。アリストクセノスの理論は経験論的な傾向を有していた[4]。音楽理論において、数比に基づいて音階を定めるピュタゴラス派と異なり、アリストクセノスは耳で聴いた音に基づいて判断した[4]。ウィトルウィウスの『建築について (De architectura
生涯
霊魂(プシュケー)は体を形作る四元素の調和であり、それゆえ死すべき運命にある(キケロに言わせれば「それ以外の何ものでもない」[8])、という説を最初に唱えたのは、アリストクセノスと (fr. 118-121 Wehrli) 、ディカイアルコスとされている。この霊魂必滅説は、プラトンの『パイドン』の中で、テーバイのシミアスが述べる説である。
『ハルモニア原論』キタラが描かれた古代ギリシアの陶器の一部を拡大したもの。ピュタゴラス派は、コルドと呼ばれる弦Kを調律する際、数学的比率のみに基づくべきとした[9]。
アリストクセノスの著書『ハルモニア原論』は、音楽理論の完全かつ体系的な解説を試みたものである。第1巻では当時のギリシア音楽のゲノス(四弦タイプのキタラの間の2弦の調律に基づく分類のこと)について説明した上で、それぞれのゲノスに属するエイドス又はスケーマ(上記調律をした四弦琴(テトラコルド)で作る音階のこと)についても解説が加えられている。この解説に続いて、音、音程、シュステーマ(それらの組み合わせ方)などに関する用語の定義が述べられる[10]。第2巻でアリストクセノスは音楽を、ゲノス、音程、音、シュステーマ、音色又は旋法、変調、メロポエイア(melopoeia)という7つの要素に分解する。『ハルモニア原論』の残りの部分には、先述の各要素に関する議論に多くが割かれる
現代の学者の間では、算術的規則が音程を定める絶対的な基準となり、調和していると言えるシュステーマならば、そのすべてに数学的な偶然が存在しなければならないというピュタゴラス派の説に対してアリストクセノスが異を唱えていたという学説がほとんどの場合支持されているが、種々のゲノスについてのアリストクセノスの説明においては、特に様々な半音を定義するために、算術的な用語と理論を広範囲にわたって用いていることは注意しなければならない[11]。