アラ・カチュー
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1871年から1872年、キルギスの大草原にて、四人の馬に乗った男性が写真の一番右にいる女性を誘拐せんと準備している。

アラ・カチュー(キルギス語: Ала качуу)とは、キルギスなど中央アジアのいくつかの国で行われている婚姻の形で、誘拐婚の一種。キルギス語で「掴んで逃げる(grab and run)」の意[1]。研究者であるクラインバック、アブレゾバ(Ablezova)、アイティエヴァ(Aitieva)の論文によると言葉の定義は広い[2]。元々は古代の合意のある穏やかな結婚[2]、もしくは半伝説的な駆け落ちを指す言葉だった[3]。20世紀以降は、合意のあるアラ・カチュー(駆け落ち)と、合意のないアラ・カチューが存在する。2005年に行われた婚姻の3分の1以上が合意のないアラ・カチューによると見られ[4]、2008年から2011年にかけての調査では半数前後を占める地域もある[5]。合意のない形態では、若い男性が友人たちと共に女性を説得し、あるいは力ずくで誘拐し、親族の待つ家まで連れていく[2]。求婚された女性は結婚を承諾するまで、男性の親族である女性たちに部屋に閉じ込められ、説得され続ける[2]。その過程で女性が一晩監禁されたり性的暴行を受けることもある[2]。国民の75%がイスラム教徒であるキルギスでは[6]、処女性は婚姻の際に重視される[7]。そのため、断れば女性はその後結婚できなくなることが多い[6]。アラ・カチューはソ連時代の1928年に法律で禁止され[8][9]1991年のキルギス独立後も、1994年に違法と制定された[6][4]。それにもかかわらず、警察裁判官も黙認している[10]。そのため依然としてアラ・カチューは続けられ、国際的にも大きな人権問題として取り上げられている[11]。クラインバックらは適切な教育の徹底を訴えている[12]
概要

地方を中心に、首都ビシュケクでも行われている。キルギスではソ連の崩壊後、反米主義とそこから来る伝統回帰を求める動きが活発になっている[13]。フィラデルフィア大学(後にトーマス・ジェファーソン大学に吸収合併)の名誉教授であるラッセル・クラインバックおよび誘拐婚撲滅を目指すNGO設立者のGazbubu Babaiarovaによると、2013年の時点で、アラ・カチューは過去半世紀以上にわたってキルギス国内で増加傾向にある[14]。その方法は年々合意を得ないものとなっており[14]、時には性的暴行を含むきわめて暴力的なものに変異しているという[15]

クラインバックは、既婚女性の35-45%がアラ・カチューによる結婚を強いられていると推定している[10]。また、68-75%のキルギス国内での結婚は誘拐婚によるものだと、Babaiarovaは主張している[16]。しかし、本来イスラム教では、女性の合意がない結婚は認められていない[17]。8割の女性は誘拐された後その家にそのまま嫁ぐ[18]。少なくとも三分の一の既婚女性が自分の意志に反して誘拐されている[4]2011年の The Advocates for Human Rights による調査結果では、アラ・カチューが以後さらに増加する可能性が指摘された[19]。その正確な数については分かっていない[20]

クラインバックおよびBabaiarovaは、法の厳罰化を否定はしないまでも、国民の教育を徹底することの重要性を唱えている[12]。両者が2013年時点でのアラ・カチューの重要な特徴として指摘するのは、以下の2点である。一つ目に、キルギスでは、アラ・カチューによる結婚が男らしいとして好ましく思う男性も一部に存在するものの、一方でアラ・カチュー以外の結婚方法が特に忌避されている訳ではないこと[21]。二つ目に、キルギスでは、法律や宗教よりも伝統を尊重する傾向があり、伝統的な英雄叙事詩『マナス』にアラ・カチューの根拠があると誤解されていることが挙げられる[22]

一つ目の特徴から以下の点を指摘して教育を施し、アラ・カチューの問題点を数値で具体化して、通常の結婚方法の魅力を相対的に上昇させることが効果的とクラインバックとBabaiarovaは述べている[23]

アラ・カチューを強引な結婚が勇気のない行動だと指摘すること。これは実行した男性のうち3割近くは、女性からの交際拒否への恐怖が原因であるため。

9割近い女性はアラ・カチューによる結婚を望んでいないこと

イスラム法であるシャリーアを利用すればアラ・カチューに頼らずとも結婚費用を抑えられること

また二つ目の問題に対しては、合意のないアラ・カチューはキルギス本来の伝統に反する行為であると実証的に示し、キルギス人の伝統を尊重する精神に訴えかけることが効果的だとした[23]。このような教育プログラムを、農村部の10か村および都市部のカラコルで1年間試験的に実施したところ、その地域の婚姻全体における合意のないアラ・カチューの割合を約1/2から約1/4にまで減らすことができたという[5]
歴史
伝説時代2000キルギス・ソム紙幣に描かれるマナス

研究者であるトゥルスーノフ(Toursunof)及びアブディルダエヴァ(Abdyldaeva)によると、アラ・カチューは元々古代キルギスに見られた、敵の一掃と部族繁栄のために他の部族から結婚できる女性をさらうという慣習を意味した[2]。この慣習では女性は合意の上で婚約者の元に連れていかれ、望めば離婚もできた[2]。研究者のアブラムゾン(Abramzon)は合意のない誘拐はそういった慣習とは異なったものと指摘している[2]。クラインバックはもし暴力的な誘拐婚が本当に風習として存在するのであれば、叙事詩として語り継がれる英雄マナスの叙事詩に記載があるはずだとするが、その記述は見られないとクラインバックは指摘している[24][注釈 1]

マナスチ(英雄叙事詩『マナス』の伝承者)の一人であるTalantaaly Bakchievによれば、アラ・カチューの伝説は、『マナス』ではなく、17世紀から18世紀ごろの民話にある悲恋譚に遡ることができるという[3]。昔々、イシク・クル湖への途上にあるボーム峡谷(英語版)の辺りに、Kiz-Kuioo(「少女―夫」)という地があった[3]。そこに、深く愛し合う若い恋人同士がいた[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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