アラン・フルニエ
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アラン=フルニエ
Alain-Fournier
アラン=フルニエ、1913年
誕生アンリ=アルバン・フルニエ
1886年10月30日
フランス共和国シェール県ラ・シャペル=ダンジヨン
死没 (1914-09-22) 1914年9月22日(27歳没)
墓地サン=レミ・ラ・キャロンヌの陸軍墓地
職業小説家詩人
国籍 フランス
活動期間1907年-1914年
ジャンル小説
代表作『グラン・モーヌ』(1913年)
デビュー作『女の肉体』
影響を受けたもの

アンリ・ド・レニエ、チャールズ・ディケンズフランシス・ジャム

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アラン=フルニエ(Alain-Fournier, 1886年10月30日 - 1914年9月22日)は、フランス小説家詩人
目次

1 生涯

1.1 幼年時代

1.2 学生時代

1.3 ロンドン滞在

1.4 創作活動

1.5 第一次世界大戦に参戦


2 評価

3 日本での出版状況

4 関連書籍

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク

生涯
幼年時代

1886年、フランス中部のシェール県の田舎町、ラ・シャペル=ダンジヨンに生まれる。3年後に妹イザベルが誕生。両親は小学校の教師で、1891年、父オーギュストが同じ県内で約100キロ南の田舎町のエピヌイユ=ル=フルリエル村の上級学校の校長に任ぜられたため一家は転出。『グラン・モーヌ』の舞台のモデルともなったその場所でフルニエは8年間、少年時代を過ごす。
学生時代

1898年10月、12歳になったフルニエは両親の元を離れてパリのリセ・ヴォルテール高等中学に入学。最初の2年間は、もと父の助手だったビジャール夫人の家に下宿、その後はリセの寄宿生となる。成績は優秀だったが、大都会の孤独な生活には馴染めなかった。1901年9月、海軍になる夢を胸にブルターニュの港町ブレストの高等中学校に編入するも、1年余り後には海軍兵学校の受験を断念して、1903年1月、ブルージュのリセ(のちのアラン=フルニエの名が冠せられる)に移り、ここでバカロレア受験に合格。この間、父はラ・シャペル=ダンジロンに転任、町役場で学校兼用の建物の中の官舎に住んだ(ここは『グラン・モーヌ』でモーヌ母子の住居として描かれている)[1]。さらに10月には高等師範学校の受験準備のため、パリの南郊のラカナル寄宿学校に移る。ここで生涯の友、ジャック・リヴィエール(のち、妹イザベルと結婚)と知り合う。この時期に詩作を開始する。1905年6月1日、ある美術展を見に行ったフルニエは会場付近で母親らしい老婦人と連れ立った少女を見そめ、二人の後を追いサン・ジェルマン街の家に入るところまで見届ける。彼はこの少女の面影が忘れられず6月30日、ミサに出かける彼女を見かけて、愛を告白する。この女性が『グラン・モーヌ』のイヴォンヌ・ド・ガレーのモデルになった。名前はイヴォンヌ・ド・キエヴルクールといいパリの住人ではなく、パリの持ち家に滞在してるだけで、けっきょく二人の愛は発展しなかった。その年、フルニエは準備不足を理由に願書を出さず、1906年にはエコール・ノルマルを受験するが不合格。1907年7月24日、高等師範学校の入学試験に失敗し、翌日サン・ジェルマン街の家を訪れ、イヴォンヌが結婚したことを門番から教えられる。
ロンドン滞在

1905年7月の夏期休暇にリセ・ヴォルテール時代の友人の兄の紹介でA・サンダーソン氏の経営する英国の壁紙製造会社で働いた。高等師範学校を卒業後の職業として英語教師を想定していたのが英国行きの主な理由であり、またイギリスはフルニエの尊敬するディケンズの国であるというのも大いに興をそそられた。期間はおよそ2ヶ月半で、ロンドンの住まいは勤務先の役員をしていたナイチンゲール氏という人物の自宅の一室を格安で提供されており、その交換条件として氏にフランス語の家庭教師をするという条件があった。仕事は商業通信文等の手紙をフランス語は英語に、英語はフランス語に翻訳する作業だった。この英国滞在中にフルニエは自身の英語に自信をつけたようである。ラカナルでの友人がロンドンにやって来た時に、学校では英語の成績が同等であったにもかかわらず、かなりの差をつけたことをリヴィエール宛の書簡に書いている。イギリスではあまりパンを食べることができず家族宛の手紙にパンを送って欲しい旨の手紙を出しており、フランスパンの店を見つけたフルニエは野外にもかかわらず貪り食ったりしていた。滞在期間中は熱心に美術館巡りをしたり、ナイチンゲール氏と田園地帯や公園、英国庭園などを見て回り深い感銘を受けた。7月3日に始まったこの英国滞在は9月16日まで続いた[2]
創作活動

進学を諦めたフルニエは1907年12月、ラ・グランド・ルヴュ誌に『女の肉体』と題するエッセーを発表する。1908年、2年間の兵役義務を果たすため入隊。最初、ヴァンセンヌの竜騎兵第23連隊に入るが騎兵隊生活の厳しさに耐えられず、ラ・トゥール=モブールの歩兵隊第104連隊に移してもらい、見習士官としてラヴァルで研修。1909年4月、ミランドの第88連隊に配属される。この間、『奇蹟(Miracles)』としてまとめられる詩や散文を書いた。1910年2月、セーヌ河岸で若い婦人帽子店主、ジャンヌ・ブリュノーと出会う。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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