Alain Delon
アラン・ドロン
1959年
本名Alain Fabien Maurice Marcel Delon
生年月日 (1935-11-08) 1935年11月8日(88歳)
出生地 フランス共和国
オー=ド=セーヌ県ソー
国籍 フランス
スイス
身長178cm
職業俳優
ジャンル映画
活動期間1957年 - 2017年
主な作品
『太陽がいっぱい』(1960年)
『若者のすべて』(1960年)
『太陽はひとりぼっち』(1962年)
『山猫』(1963年)
『地下室のメロディー』(1963年)
『冒険者たち』(1967年)
『サムライ』(1967年)
『さらば友よ』(1968年)
『ボルサリーノ』(1970年)
『レッド・サン』(1971年)
受賞
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール・ドヌール
2019年 映画、演劇両界における長年の功績に対して
ベルリン国際映画祭
金熊名誉賞
1995年 映画界、演劇界への長年に渡る貢献に対して
セザール賞
作品賞
1976年『パリの灯は遠く
アラン・ドロン(Alain Delon, 1935年11月8日 - )は、フランスの元映画俳優。その類稀な美貌から1960年代から1970年代にかけて、世紀の二枚目として人気を博した。ドロンは芸術映画から娯楽映画まで、数多くの作品に出演している。 1935年11月8日パリ郊外のセーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。 4歳で両親が離婚し[1] 母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生まれた娘(エディット)だけを可愛がったためにアランはのけ者とされる。さらに実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。家庭不和による愛情不足のため、彼は女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とした。ドロンはその後14歳より食品店で働き始めた。 やがてドロンはフランス海軍へ志願。未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。この一件で、母への不信感を持った。17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、第一次インドシナ戦争へ従軍することになった。1955年、休戦協定によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。その後、さまざまな職業を転々とするが、職業経験は後の俳優人生にプラスに働いた。 翌1957年の夏、女優のブリジット・オベール
来歴
1959年、コメディ映画『お嬢さん、お手やわらかに!』がフランスで大ヒットした[2]。同年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。
1960年、ドロンはパトリシア・ハイスミス原作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』に主演した[3]。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも出演した。その後も『シシリアン』『冒険者たち』『さらば友よ』『暗黒街のふたり』『ボルサリーノ』『栗色のマッドレー』『地下室のメロディー』『レッドサン』『友よ静かに死ね』『ショック療法』『ル・ジタン』『アラン・ドロンのゾロ』ほか多数の映画作品に出演した。『暗殺者のメロディ』ではレフ・トロツキーを殺害する男を演じた。ジョゼ・ジョバンニ監督との名コンビは、よく知られている。音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとのアルバムがあるドイツ人モデル・歌手のニコとの関係も知られている。ニコは1962年にドロンとの子供である長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。クリスティアンはドロンの実母に育てられた。
ロミー・シュナイダーと破局した後には、1963年、ナタリー・バルテルミー(本名はフランシーヌ・カノヴァのちナタリー・ドロン)と出会う。ナタリーはモロッコのカサブランカ出身で、育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ、親しくなった。1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)が生まれる。この年には3人でアメリカ合衆国のビバリーヒルズに滞在。