アラム語
?????, ?????
Ar?mit
発音IPA: [ar?miθ], [ar?mit],
[?r?m?j?], [?r?m?j?]
話される国
レバノン
イラン
イラク
イスラエル
シリア
トルコ
ヨルダン
アッシリア人のディアスポラ
話者数約2,105,000人
言語系統アフロ・アジア語族
セム語派
中央セム語
北西セム語
アラム語
表記体系アラム文字, シリア文字, ヘブライ文字, マンダ文字, アラビア文字 (日常語) デモティック[1]、漢字[2]の碑文が少数ながら見つかっている。
言語コード
ISO 639-3各種:
arc
アラム語(アラム語、???? ?????, ラテン語: Lingua Aramaica)は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語(英語版)などと同じ北西セム語に属す言語である。アラマイ語とも呼ばれる[3]。
もともとアラム語は今のシリアを中心としてその周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だった。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した[4]。
アラム語は新アッシリア帝国の外交用語としても使われ、新バビロニアやアケメネス朝ペルシア帝国は行政用の公用語としてアラム語が使われた。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。 アラム語によって書かれた文献は3000年間近くにわたる長い歴史を持ち、その間に大きな変化を経ている。また地理的な違いも大きい。大別すると以下のように分けられる[5]。
歴史
古代アラム語(紀元前850年 - 紀元前612年[6])各地の碑文によって知られる。当時アラム人は中東で重要な役割を果たし、アラム語は新アッシリア王国の外交のための国際語として使われ、エジプトからメソポタミアに至る地域で使われたが、まだ標準は成立していなかった。
帝国アラム語(紀元前600年 - 紀元前200年)アラム語は新バビロニアとアケメネス朝の行政のための公用語として、エジプト、アナトリアからインド亜大陸に及ぶ広大な地域で用いられた。また標準的なアラム語の文章語が成立した。なお、この時代の文献はほとんど残っていないが、主にエジプトからパピルスや革に書かれた文章が発見されており、その代表がエレファンティネ・パピルスである。また、聖書のエズラ記の中に引用されているアラム語の手紙はこの時代に属する。ほかにわずかな碑文が残る(ペルセポリスのものやアラム語で書かれたアショーカ王碑文)。
中期アラム語(紀元前200年 - 西暦250年)この時代、中東世界の行政語としてのアラム語の地位はギリシア語に取ってかわられた。また、地域ごとの方言分岐が起きた。しかし、帝国アラム語時代以来の文章語は地域差を越えて使われ続けた。パルミラ、ナバタイ、ハトラなどの碑文や、死海文書のアラム語文献、聖書のダニエル書の一部で使われているアラム語、オンケロスおよびヨナタンによるタルグーム(聖書の翻訳)はこの時代に属する。
後期アラム語(または古典アラム語、西暦200年 - 1200年[7])東西の2方言あるいはパレスチナ、シリア、バビロニアの3つの方言に大別され、ユダヤ教、サマリア人、キリスト教、マンダ教の文献が書かれた。とくにシリアのキリスト教徒の文献の言語をシリア語と称する。この時代の後半になると話し言葉としてのアラム語は大部分がアラビア語によって駆逐される。
現代アラム語
現代西アラム語はシリアの3つの村でのみ話される言語で、うちマアルーラはキリスト教、残り2つはイスラム教の村である[8]。
現代東アラム諸語はトルコ南東部、イラク北部、イラン北西部に散在し、その分布は大部分がクルド語地域(クルディスタン)の中にあって言語島をなす。