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『アラベラ』(ドイツ語原題:Arabella)作品79は、リヒャルト・シュトラウスが1929年から1932年にかけて作曲した3幕のオペラ。台本はフーゴ・フォン・ホフマンスタール。 詩人で劇作家のフーゴ・フォン・ホフマンスタールは、『エレクトラ』以来6作のオペラの台本(リブレット)をシュトラウスに提供したが、本作は2人の共同作業の最後となった。かつてはドイツ語圏以外で上演される機会は少なかったが、近年は上演が増え、シュトラウスの作品の中でもとりわけ人気作となりつつある。 シュトラウスによって《第2の『ばらの騎士』》を目指して書かれた『アラベラ』だったが、ロココ時代を舞台に19世紀音楽であるウィンナ・ワルツが鳴り響き、ズボン役が登場する奔放な『ばらの騎士』と違い、『アラベラ』はより緊密でリアリティのある音楽が書かれ、『ばらの騎士』の二番煎じとはならなかった。第3幕を除いては前奏曲抜きで幕を開け、各幕とも爆発的に高揚する舞踏のリズムで締めくくられる(シュトラウス作品は静かな締めくくり、またはこれに最後の数小節のみトゥッティを加える形が多く、本作は異例である)という、華やかで親しみやすい構成となっている。 モーツァルトのオペラになぞらえ、シュトラウス版『コジ・ファン・トゥッテ』と見なす向きもある(同じく『ばらの騎士』はシュトラウス版『フィガロ』、『影のない女』はシュトラウス版『魔笛』)。ハンガリーの富豪マンドリーカを表すために、クロアチア民謡が引用されている(クロアチアは第一次世界大戦前にはハンガリー王国領であった)。 1927年、『エジプトのヘレナ シュトラウスはオペラの製作そのものには賛同したものの、この構想になかなか満足出来ず、幾度となく修正・改稿を求めた。そのため、ホフマンスタールの台本作りはいつになく難航することになった。両者の関係はこじれ、時に非常な緊張状態になり、詩人は作曲家のしつこい要求に音を上げて、一時は作品の破棄まで考えた(この間の2人の対立を裏付ける往復書簡が後に公刊されている)。しかし最終的には紆余曲折を経て合意に至り、1929年7月10日に最終稿が完成した。 シュトラウスは台本完成を喜び、急ぎ感謝の電報を出したが、それが詩人に読まれることは永遠になかった。かねて病床に就いていたホフマンスタールは、長男の拳銃自殺という悲劇に耐えかねたのか、卒中の発作を起こして息を引き取ってしまったのである。 完成台本を手にしたシュトラウスは、すかさず作曲に取りかかった。台本作家の死に奮起したのか、第1幕は2ヶ月という異例の早さで完成したものの、その後は指揮活動や他の作品の作曲に追われ、作曲はなかなか進行しなかった。総譜が完成するのは1932年10月12日にずれ込んだ。 1933年7月1日、シュトラウスのオペラをたびたび取り上げ、作曲家も信頼するドレスデン国立歌劇場にて初演された。当初、初演の指揮はフリッツ・ブッシュが担当する予定であったが、彼は演出を担当するアルフレート・ロイッカーともども、ナチスの台頭を忌避して亡命してしまった。シュトラウスは衝撃を受けて、一度は上演を取りやめる決意をするが、結局シュトラウスの希望するキャストを受け入れることで上演は決行された。 代わって指揮台に立ったのは、後にシュトラウスの『カプリッチョ』の台本を執筆することになるクレメンス・クラウスであった。主役のアラベラは未来のクラウス夫人でもあるヴィオリカ・ウルズレアック
目次
1 概要
2 台本
3 作曲
4 初演
5 楽器編成
6 演奏時間
7 配役
8 あらすじ
8.1 第1幕
8.2 第2幕
8.3 第3幕
9 脚注
10 参考文献
概要
台本
作曲
初演