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(国旗)(国章)
国歌: ????? ???? ?? ?????(アラビア語)
アラブ連合共和国の位置
公用語アラビア語
首都カイロ
大統領
1958年 - 1970年ガマール・アブドゥル=ナーセル
1970年 - 1971年アンワル・アッ=サーダート
首相
1958年 - 1962年ガマール・アブドゥル=ナーセル
1970年 - 1971年マフムード・ファウジー
面積
1961年1,166,049km²
人口
1961年32,203,000人
変遷
成立1958年2月22日
シリアの連合脱退1961年9月28日
国号をエジプトと改称1971年9月11日
通貨アラブ連合共和国ポンド
国際電話番号963
現在 エジプト
シリア
アラブ連合共和国(アラブれんごうきょうわこく、アラビア語: ????????? ??????? ???????, ラテン文字転写: al-Jumhuriyah al-Arabiyah al-Muttahidah, 英語: United Arab Republic, 略称UAR)は、1958年にエジプト共和国が、シリア共和国と連合し作られた国家である。アフリカ大陸の北東部分およびアジア大陸の西側に位置した飛び地国家で、人口はエジプト2,598万人、シリア457万人(1960年センサス)、面積1,186,630km2(エジプトとシリアの合計)であった。首都はカイロ。しかし、1961年にシリアが連合を離脱したのに伴い、連合は解体した。エジプトは1971年までこの名を名乗り続けたが、現在ではエジプト・アラブ共和国(エジプト)となっている。 アラブ連合共和国は、1958年2月1日に建国された。そのきっかけは、シリアの政治・軍事指導者たちのグループがエジプトの大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルに汎アラブ民族国家の建設の第一歩として合邦を呼びかけたことであった。シリアの汎アラブ主義感情は強く、また同じく汎アラブ主義者であったナーセル大統領は1956年のスエズ危機を乗り切ったことや農村改革などの社会主義的改革手法でアラブ世界の英雄となったところだった。このため、シリアではナーセルのエジプトと連合を組むことに大衆の支持があったとされる。 連合がこのように即座に誕生したことには特殊な理由もあった。シリアはトルコなど周辺諸国に押されていたほか、国内ではハーリド・バクダーシュ エジプトのナーセル大統領とシリアのシュクリー・アル=クーワトリー大統領は1958年2月22日、両国での国民投票での圧倒的な賛成を経て連合協定に調印した。ナーセルが新しいアラブ連合大統領に選ばれ、カイロが首都となった。また新しい憲法が制定された。 この協定で二つの国家はナーセルを首班とする一つの国として結ばれた。連合共和国は単一国家体制をとっており、ナーセルの卓越した指導力とエジプト地区の人口・政治上の優位により、連合共和国はエジプト主導の国家となっていった。エジプト人の軍事顧問や技術顧問がシリア地区に入り、シリア地区の軍・警察・官僚はエジプト人の管理下に入ったためシリア人の間には憤慨が広がった。
建国と崩壊
統合呼びかけと背景
連合の構成とエジプトによる支配