アラブ・東ローマ戦争における捕虜交換
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アラブ・東ローマ戦争における捕虜交換(アラブ・ひがしローマせんそうにおけるほりょこうかん)では、アラブ・東ローマ戦争を通じて、アッバース朝をはじめとしたアラブ人勢力と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の間で行われた捕虜の交換について述べる。捕虜交換(英語版)は8世紀後半から10世紀後半まで続き、戦争中の両陣営の重要な交流機会となった。交換は両陣営の領域の境にあたるキリキアのラモス川(英語版)で行わることが多かった。
捕虜の処遇

数世紀にわたって続く東ローマ帝国イスラーム帝国の戦争の中で、両陣営は規則的な外交・文化交流を積み重ねるうちに、互いにある程度の理解と敬意を持つようになった[1]。例えば東ローマ宮廷では、「東方のムスリム」は聖界官職者(東ローマ帝国と同じキリスト教を奉じるブルガリア人フランク人を含む)に次ぐ好待遇を受けた[2]

また両陣営ともに、負傷した捕虜には人道的な治療が施された。東ローマ帝国では、アラブ人捕虜は凱旋式で見世物にされる以外はおおむね手厚い世話を受けた。高位の捕虜は賓客として扱われることが多く、競技場での戦車競走コンスタンティノープル大宮殿での皇帝の宴席に招待されることもあった。皇帝の宴席では、セレモニーの一環として捕虜が皇帝から贈答品を贈られることも多かった[3]

しかし、一般兵の捕虜は、奴隷として売り飛ばされたり、身代金が払われるか捕虜交換の対象となるまで牢獄に留め置かれたりするのが普通だった。ほとんどは労働力として使役されたが、中にはキリスト教に改宗して土地を与えられ、東ローマ帝国内に住み着くものもいた。一方で、改宗しなかった者もモスクで礼拝をおこなう自由を認められていた。10世紀のアラブ人旅行家ムカッダスィー(英語版)によれば、アラブ人捕虜は奴隷として働かされていたとはいえ、給料を稼ぐことができたし、東ローマ当局は「誰にも豚肉を食べるよう強制せず、鼻や舌を切り裂くようなこともしなかった」[4][5]
捕虜交換

東ローマ帝国とアラブ人は、国境であるキリキアのラモス川(現在のリモンル川(英語版))で定期的に捕虜交換 (ギリシア語: ?λλ?για, allagia アラビア語: fid??, pl. afdiya)を実施した[6][7]。捕虜交換が行われる前にはまずフドナ(英語版)(休戦)が結ばれ、両陣営が川を挟んで対峙した。そしてそれぞれの陣営から1人ずつ捕虜を交換していった。イスラーム法学者タバリーは、845年の捕虜交換の経過を詳細に記録している。「それぞれの陣営の捕虜が渡るために、川に2本の橋が架けられた。両陣営は互いに捕虜1名を解放し、その捕虜は同宗の仲間の元へ、反対から(もう一方の橋を)渡ってくる者と同時に橋を渡った。交換が終わり、余りの捕虜がいれば、身代金が支払われるか、奴隷と交換された。」[6][8]
捕虜交換の一覧

時期概要
769年
証聖者テオファネスのみが言及[9]
797年マスウーディーのみが言及[9]
805年マスウーディーとタバリーが言及。初めてラモス川で捕虜交換が行われた。アッバース朝の宦官アブー・スライマン・ファラジュ(英語版)の監督のもと、12日間で3,700人の捕虜が交換された[7][9][10]
808年マスウーディーとタバリーが「サビト・イブン・ナスル(英語版)の捕虜交換」として言及。アラブ側のサビト・イブン・ナスルの監督のもと、7日間で2,500人が交換された[7][9][11]
810年マスウーディーのみが言及[9]
816年マスウーディーのみが言及[9]
845年9月複数のムスリム史料が「カーカーン(英語版)の捕虜交換」として言及。東ローマ側の手にあった捕虜の方が不釣合いに多かったため、アッバース朝カリフのワースィク(英語版)は差を埋め合わせるための奴隷をバグダードラッカの市場で買い漁ったり、自分自身に仕えていた女奴隷を解放したりせざるを得なくなった。またムスリム捕虜は、首席カーディーのAhmad ibn Abi Du'ad(英語版)の密使を送り込んで、クルアーン創造説(英語版)に同意する捕虜のみ交換の対象として認めることにした。タバリーによれば、10日間で4,600人のアッバース朝側の捕虜が解放され、うち600人は女性、500人はズィンミーだった。なおイブン・アスィールはそれぞれの数を4,460人、800人、100人としている[7][12][13]
856年2月23日ムスリム文献には「シュナイフの捕虜交換」と記録されている。7日間行われ、タバリーによれば、東ローマ帝国は20,000人の捕虜を抱えており、ミカエル3世の母で摂政のテオドラ(英語版) はキュリアコスの子ゲオルギオスという者を使節としてアッバース朝に派遣し、捕虜交換の開催を求めた。カリフのムタワッキルもこれに応じ、ナスル・イブン・アル=アズハル・イブン・ファラジュを東ローマ帝国に派遣して捕虜の数を調査させた。855年11月19日から856年3月5日までの休戦が結ばれ、アッバース朝側の使節団はシュナイフ・アル=カディムを長とし、首席カーディーのジャアファル・イブン・アブド・アル=ワヒード(英語版)らバグダードの高官が参加した。タバリーによれば、アッバース朝側は785人の男性捕虜と125人の女性捕虜を取り戻した。なおマスウーディーはそれぞれの数を2,200/2,000人と100人としている[7][12][14]
860年4/5月「ナスル・イブン・アル=アズハルとアリー・イブン・ヤフヤー(英語版)の捕虜交換」。


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