アラブ・ハザール戦争
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アラブ・ハザール戦争

第二次アラブ・ハザール戦争終結後のコーカサスの勢力図(740年頃)

642年 - 799年
場所北コーカサス(特にダゲスタン)、南コーカサス(特に現代のアゼルバイジャンおよびイラン領アーザルバーイジャーン[1]
領土の
変化イスラーム帝国が南コーカサスの支配を確保し、イスラーム勢力の拡大はデルベントを超えた地点で止まった。

衝突した勢力
正統カリフ(661年まで)
ウマイヤ朝(661年 - 750年)
アッバース朝(750年以降)ハザール
指揮官


アブドゥッラフマーン・ブン・ラビーア(英語版) 

マスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)

ジャッラーフ・アル=ハカミー(英語版) 

サイード・ブン・アムル・アル=ハラシー(英語版)

マルワーン・ブン・ムハンマド

ヤズィード・アッ=スラミー(英語版)


アルプ・タルカン(英語版)

バルジク(英語版) 

ハゼル・タルカン(英語版) 

ラス・タルカン(英語版)










イスラーム教徒の大征服(英語版)

東ローマ帝国

シリア・パレスチナ

エジプト

アルメニアおよびジョージア

北アフリカ

キプロス

コンスタンティノープル

クレタ

シチリアおよび南イタリア

サーサーン朝ペルシア

パールス

ケルマーン

ペルシア北部

スィースターン

ホラーサーン

アフガニスタン

インダス川流域

ラーイ朝

カフカス

アルメニア

アルバニア

イベリア

ハザール・カガン国

マー・ワラー・アンナフル

西ゴート王国 (ヒスパニア)

フランク王国 (ガリア)

アラブ・ハザール戦争(アラブ・ハザールせんそう、: Arab?Khazar wars)は、遊牧民国家のハザールと、正統カリフウマイヤ朝アッバース朝及びその従属勢力との間で行われた一連の戦争である[注 1]。歴史家は通常この戦争を642年から652年頃にかけて起こった第一次アラブ・ハザール戦争と、722年頃から737年にかけて起こった第二次アラブ・ハザール戦争の二つの期間に分けて区別している[2][3]。しかし、これらの期間以外にも7世紀の中頃から8世紀の終わりにかけて散発的な襲撃や単発での軍事衝突がたびたび起きていた。

アラブとハザールの戦争は、主としてウマイヤ朝のカリフ南コーカサスと既にハザールが勢力を築いていた北コーカサスの支配を確保しようと試みた結果として発生した。640年代から650年代の初めにかけて行われた最初のアラブ軍による侵攻は、アブドゥッラフマーン・ブン・ラビーア(英語版)の率いるアラブ軍がハザールの都市のバランジャル(英語版)において敗北を喫したことで終わりを迎えた。その後、710年代に双方の勢力が互いにコーカサス山脈を越えて襲撃する形で戦争が再開された。ウマイヤ朝の著名な将軍であるジャッラーフ・アル=ハカミー(英語版)とマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)に率いられたアラブ軍は、デルベントとハザールの南方の首都であるバランジャルを占領することに成功したものの、これらの成功は南コーカサスの深部への襲撃を繰り返していた遊牧民のハザールにはほとんど影響を与えなかった。このような状況の中、730年にハザール軍がアルダビールの戦い(英語版)でウマイヤ朝軍に大勝を収め、ジャッラーフを戦死させたものの、翌年には敗北して北へ押し戻された。マスラマはデルベントを取り戻し、この都市をアラブ軍の重要な前線基地かつ軍事植民地としたが、732年にカリフのヒシャームによって更迭され、マルワーン・ブン・ムハンマド(後のウマイヤ朝のカリフのマルワーン2世)が後任となった。その後は比較的局地的な武力衝突が続いたものの、737年にマルワーンがヴォルガ川沿いのハザールの首都であるイティルに達する大規模な遠征を敢行し、ハザールのカガン(ユーラシアの北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ)に対し何らかの形による服属を認めさせた後に撤退した。

737年のマルワーンの遠征は二つの勢力間における大規模な戦争に終止符を打ち、アラブ人は南コーカサスの支配を確保してデルベントを最北のイスラーム勢力の前線基地として確立させた。しかしながら、打ち続いた戦争は同時にウマイヤ朝の軍事力を弱体化させ、数年後に始まるウマイヤ朝の内戦とアッバース革命による王朝の最終的な崩壊に影響を与えることになった。コーカサスにおけるその後のイスラーム勢力とハザールの関係は、ハザールのカガンと現地のアラブ人の統治者、もしくはコーカサスの地方政権の王族との間の婚姻政策を通じた同盟関係の確保に失敗した結果、760年代と799年の二回にわたってハザールの侵攻を招いたことを除き、大部分の期間において平穏な状態が続いた。ハザールとコーカサスのイスラーム系諸勢力に挟まれた地域では、10世紀後半にハザールが崩壊するまで時折紛争が発生したものの、8世紀に起きたような大規模な戦争が繰り返されることはなかった。
戦略的な背景と戦争の動機
遊牧民と定住民の境界地域としてのコーカサス「アレクサンドロスの門」として知られるサーサーン朝時代に築かれたデルベントの要塞群の地図(ローデリヒ・フォン・エルケルト(英語版)作成)

アラブとハザールの戦争は、ポントス・カスピ海草原遊牧民世界と、コーカサス山脈の南側の定住民世界との間において長期にわたって続いた一連の軍事紛争の一部であった。山脈を越える二つの主要なルートである山脈中央部のダリアル峠(英語版)(アランの門)と東のカスピ海沿いに位置するデルベント(カスピ海の門、またはアレクサンドロスの門(英語版)として知られる)は、古典古代の時代から侵入路として利用されてきた[1][4]。その結果として、スキタイフンなどの草原の民の破壊的な襲撃に対するコーカサスの辺境地帯の防衛は、近東地域に築かれた帝国の支配者にとって最も重要な責務の一つと見なされるようになった[4]。これは「ゴグとマゴグ」の大群をアレクサンドロス大王が神の助けを借りて排除したとする中東の文化において一般的に信じられている俗説に反映されている。歴史家のジェラルド・マコが指摘するように、アレクサンドロスの防壁が破られ、ゴグとマゴグが突破すれば世界の終末が訪れるであろうことから、草原の民は「血を飲み、子供を喰らい、止まることを知らない強欲と残虐性に満ちた未開の野蛮人」であるとするユーラシアの定住文明によって考えられていた典型的な「北の野蛮人」であった[5]

襲撃にさらされやすいカスピ海沿岸の辺境地域を防衛するために、石造りの要塞群の建設がサーサーン朝の王であるペーローズ1世(在位:457年 - 484年)の治世に始まり、ホスロー1世(在位:531年 - 579年)の時代に完成をみた。これらの要塞群はコーカサス山脈の東の山麓からカスピ海まで45キロメートル以上にわたって伸びていた。ペルシア語のダール=バンド(Dar-band,「閉じられた門」を意味する)の名から想起されるように、デルベントの要塞は戦略的に極めて重要な要塞群の中心的存在であった[6][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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