アラビア書道
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アラビア書道(アラビアしょどう、英語: Arabic calligraphy)は、アラビア文字を用いるカリグラフィーである。アラビア文字を流麗に手書きすることにより、調和や優美さを表現する芸術実践である(#定義)。一般的には「カラム」と呼ばれる葦ペンのペン先にインクを染み込ませ、紙などの書画媒体に手書きする(#道具)。数多くの書体が生み出されてきたことも特徴のひとつである(#書体)。アラビア書道はイスラーム教との関りが強く、その聖典クルアーンを書き表すための書記法として発展した(#歴史)。また、イスラーム信仰圏の空間的広がりと多極化にともない、地域ごとに独特の発展も見せた(#地域様式の出現と展開)。
定義

ユネスコはアラビア書道を「アラビア文字を流麗に手書きすることにより調和や優美さを表現する芸術実践」と定義している[1]。アラビア文字を手書きする芸術実践、すなわち、アラビア文字によるカリグラフィーは、歴史的にはクルアーンの写本制作を中心として、イスラーム教との深いかかわりの中で発展した[2]。そのため、ユネスコは「アラビア書道」 "Arabic calligraphy" と呼ぶが、英語圏ではむしろ "Islamic calligraphy と呼ぶことの方が多い[3][4]。一方で日本語では決まった呼び名がなく、イスラーム文化に関する事典類では単に「書道」と呼ばれることが多い(たとえば平凡社の「イスラム辞典」等参照。)。日本アラビア書道協会は「アラビア書道」と呼んでいる[5]
道具葦ペン「カラム」のペン先

イスラームの宗教伝統においては、預言者ムハンマドに最初に下した啓示はクルアーン96章1-5節であるとされている[3]:57-78。この啓示には「筆もつすべを教え給う」という言葉が含まれる[3]:57-78。また、クルアーン68章は「ペンとかれらの書くものにかけて」という言葉で始まる[3]:57-78。伝統的な註解書によれば、この啓示における「ペン」は神が天地創造の際に、以後に起きる出来事のすべてを書き記すものである(また、それゆえに「ペン」こそが神が最初に創造したものであるとされる)[3]。これら「筆」や「ペン」と日本語訳されているものはアラビア語では「カラム」(アラビア語: ???‎, ラテン文字転写: qalam)といい、植物の葦の茎を削って作る葦ペンである[3]:57-78。アラビア書道における字を書く道具は、通常、この葦ペン、カラムである[3]:57-78[6]。カラムの素材には竹もよく使われる[1][6]

インク(ミダード)は、伝統的には、ランプの煤(すす)にアラビアガムを加えて薄め、粘り気を出したものが使われる[6]ハチミツで粘り気を出すことも行われてきた[1]。また、赤い色のインクのために、サフランも用いられてきた[1]

書写材料としては、7-9世紀ごろまで、板、石のほか、獣皮紙パピルスが使われていたが、製紙法の伝来とともに10世紀ごろから紙も使われるようになった[3]。紙は職人が、卵白に塩を混ぜて薄めた液を紙の表面に塗り、乾かした後、瑪瑙のような固い石で擦って表面をツルツルに仕上げる[6]。表面処理の際には卵白のほかに、デンプンミョウバンを使う場合もある[1]。色のついた紙が積極的に用いられることもあり、イランでは19世紀を通して青い紙が使われた[4]。オスマン帝国ではさまざまな色紙に書いたイブラヒム・ミュテフェッリカ(1742年歿)の作品が知られている[4]
書体

アラビア文字によるカリグラフィーには様々な字体・書体がある[4]

ヒジャージー体

クーフィー体

ムハッカク体

ナスフ体

スルス体

ライハーニー体

タウキーウ体

リカーウ体

ナスタアリーク体

シカスタ・ナスタアリーク体

マグリビー体

ディーワーニー体

スィーニー体

歴史

イスラームの到来以前のアラビアにおいては、詩が最高の芸術表現であると考えられていた[3]:57-78。しかし詩は書き表されることはなかった[3]:57-78。詩は詩人、もしくは職業朗誦者により記憶され、朗誦のたびごとに即興で潤色が加えられ、絶えず作りなおされた[3]:57-78。筆記が用いられたのは、商業通信や取引・契約の記録である[3]:57-78。商業通信にはパピルスが用いられ、本・冊子体には耐久性のある獣皮紙(ヒツジ、ヤギ、ガゼルなどの皮をなめして作った紙)が用いられた[3]:57-78。アラビア文字はイスラームの到来以前のアラビアにおいて、シリア文字あるいはナバテア文字から作られた[4]

最初期のイスラーム共同体では、ムハンマドへの神の啓示は口承により伝えられた[3]:57-78。ウスマーンによるクルアーン結集(7世紀)時点でも人びとの記憶に依存した口承が中心である[3]:57-78。その後イラクのクーファやバスラでアラビア語文法が研究されるようになりクルアーンの筆記が進んだ。クーファで生まれたとされる字体が「クーフィー体」である[7]:26-37。クーファやバスラの言語学者らはアラビア語の正書法も考案した[7]:44。

9世紀のアッバース朝では官僚制度が急速に浸透し、「カーティブ」と呼ばれる書記が行政文書をアラビア文字で書くようになった[7]:26-37。その際、筆記にはクーフィー体を簡便にした字体「崩れ草書体」「東方クーフィー体」などと呼ばれる筆記体が用いられていく[7]:26-37。クーフィー体は石などに刻まれた銘に影響を受けたといわれ、四角張った古雅な装飾書体である[3]:57-78。美的には優れていたが非経済的で手間がかかった[7]:26-37。これに対し崩れ草書体は読みやすく書きやすい[7]:26-37。世俗的な文書に用いられた字体であるが10世紀にはクルアーンの写本制作にも使われるようになった[7]:26-37。書写材料についてもこの時期に大きな変化があった[7]:26-37。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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