アラビア属州
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アラビア・ペトラエアの位置(120年頃のローマ帝国)

アラビア・ペトラエア(ラテン語: Arabia Petraea)は、2世紀に創設されたローマ帝国属州である。アラビア属州(アラビアぞくしゅう、ラテン語: Provincia Arabia)とも称される。その領域は、かつてナバテア人の王国が存在した現在のヨルダンシリア南部、シナイ半島、およびサウジアラビア北西部からなる。当時、北の境界はシリア属州に接し、西の境界はユダヤ属州アエギュプトゥス(エジプト)に接していた。

この地域は、皇帝トラヤヌス(在位:98年 - 117年)の時代にローマ帝国へ編入された。トラヤヌスは外征に積極的だったので、アルメニアメソポタミアなどもこの時期に征服された。その多くは次代ハドリアヌスの時代にローマの支配下を離れたが、アラビア・ペトラエアは長くローマ支配下に留まった。南の国境の砂漠地帯はアラビアの防護壁(リメス)とも呼ばれ、その先はパルティア王国と接していた。砂漠地帯には、遊牧民のサラセン人が住んでいた。パルティア人とパルミラ人の侵入も受けたが、同じローマ帝国の国境としてレヌス川(現:ライン川)やダヌビウス川(現:ドナウ川)流域方面、北アフリカ方面に比べると、侵略を受けず平穏な期間が長かった。

この地域からは皇帝が誕生しておらず、皇位に名乗りを上げて反乱を起こす者もいなかった(ただし、ローマ皇帝ピリップス・アラブスはアラビア・ペトラエア生まれの可能性もある)。
地理ペトラの遺跡 ― 1985年にユネスコの世界遺産に登録された。

アラビア・ペトラエアは、地域による違いが大きかった。大部分の地域には住人は少く、都市のほとんどは北部のヨルダン川周辺に発達した。モアブ台地(現ヨルダンの一部)には年間200mmの降雨があり、比較的肥沃であった。大きな港湾は、紅海につながるアカバ湾の先端に位置するアカバ1箇所だった。

州都の位置については議論が分かれており、シリア属州との国境に近いボスラの1箇所だったという説と、ボスラだけでなくモアブ台地の南端に位置したペトラも加えた2箇所だったという説がある。属州総督はペトラとボスラの両方を拠点としており、どちらにいても勅令を発することがあった。アラビア・ペトラエアを併合するとき、ローマ皇帝トラヤヌスはボスラを州都として「トライアネ(Traiane)」の名を与えた。一方、ハドリアヌスがローマ皇帝になったとき、それと同様の儀式をペトラに対して行った。ペトラはローマ第3軍団キュレナイカの拠点でもあった。

ヨルダン川周辺以外を見ると、シナイ半島の北部にはネゲヴと呼ばれる乾燥地帯が広がっていた。さらに、紅海沿岸の地域は、ヒスマ(Hism?)と呼ばれる荒地が沿岸の北側まで続いており、そこは岩だらけだった。
ローマ帝国による征服

106年にローマに征服されるまでは、この地域はナバテア王国の領域で、ナバテア最後の王ラッベル2世ソテル(Rabbel、70年から在位)に統治されていた。ラッベルが死去すると、ローマ第3軍団キュレナイカはアエギュプトゥス(エジプト)から北上してペトラを、一方でシリアに駐屯していたローマ第6軍団フェラタは南下してボスラをそれぞれ征服した。ラッベルにはオボダス(Obodas)という名の後継ぎがおり、何を口実にローマが侵略したのかを示す記録は残っていない。二つのローマ軍団はナバテア王の親衛隊からはいくらか抵抗されたものの、ナバテア人からの本格的な抵抗はなく、さらに征服後にはナバテア人の軍隊はすぐにアウクシリアとして従事しはじめた。トラヤヌスはアラビア遠征に成功したにもかかわらずアラビクスのような称号を受けておらず(例えばダキア戦争で勝利したときにはダキウスの称号を受けた)、この征服に際しては、ナバテア王国側に何か事情があったと考えられる。トラヤヌスは、この後にチグリス川を越えてメソポタミアまで征服することになるが、ナバテア征服によってその野望の足がかりを確保したことになる。アラビア・ペトラエアの州都ボスラ

アラビア・ペトラエアの中心を通るトライアナ・ノウァ街道(Via Traiana Nova)が建設された。このローマ街道は、ボスラからペトラを経由してアカバまでを結んだ。街道の開設を待って公式にナバテア征服が祝賀され、表面はトラヤヌス帝の胸像・裏面にはラクダを描いた新硬貨が発行された。この硬貨は115年まで鋳造され続けたが、その頃になると、ローマ帝国の関心はアラビア・ペトラエアから離れてもっと東の領土に移った。


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