アラス
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カフカース地方の河川については「アラス川」を、カフカース地方に短期間存在した国家については「アラス共和国」をご覧ください。

Arras



行政
フランス
地域圏 (Region)オー=ド=フランス地域圏
(departement)パ=ド=カレー県
(県庁所在地)
(arrondissement)アラス郡
(郡庁所在地)
小郡 (canton)3小郡庁所在地
INSEEコード62041
郵便番号62000
市長任期)フレデリック・ルテュルク
2014年-2020年
自治体間連合 (fr)fr:Communaute urbaine d'Arras
人口動態
人口41 239人
2012年
人口密度3 546人/km2
住民の呼称Arrageois(e)
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度17分23秒 東経2度46分51秒 / 北緯50.28972222度 東経2.780833333度 / 50.28972222; 2.780833333座標: 北緯50度17分23秒 東経2度46分51秒 / 北緯50.28972222度 東経2.780833333度 / 50.28972222; 2.780833333
標高平均:72 m
最低:52 m
最高:99 m
面積11,63km2 (1163ha)
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公式サイト ⇒http://www.arras.fr/
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アラス(Arras)は、フランス北部、オー=ド=フランス地域圏の都市。パ=ド=カレー県の県庁所在地。かつてのアルトワ地方に属す。LGV北線が停車する。
歴史

アラスはボーディモンの丘の上に、ケルト人であるアトレバス族(Atrebates)によって建てられた。彼らは定住地を、『聖なる木立群』を意味する言葉ネメトン(Nemeton)にちなみ、ネメタクム(Nemetacum)かネメトセンナ(Nemetocenna)と名付けた。おそらく現在のアラスの場所にあったとされている。古代ローマ人は定住地を後にアトレバトゥム(Atrebatum)と改名し、重要な駐屯地のある町へしていった[1][2]

町の住民たちがキリスト教に改宗したのは4世紀終わりであった。彼らを改宗させた聖ディオゲネスは、410年に町が野蛮な民族の攻撃を受けた際に殺害された。およそ130年後、聖ヴェデスト(Vaast,聖ファースト、聖ヴァーストとも)が町に教会と修道院共同体を創設した。それらはカロリング朝時代に、無限に富を蓄えたベネディクト会派の聖ヴァースト修道院へと発展した。現代のアラスの町は、初めは穀物市場として修道院周囲で成長したのである。9世紀に町も修道院もヴァイキングの襲撃で被害を受け、後にヴァイキングらはノルマンディー西部へ定住した。11世紀には、修道院はその力強さを蘇らせ、カロリング朝、オットー朝、イングランドの各芸術を統合するのに成功した中世絵画発展に、重要な役割を担った[3]

アラスの羊毛産業を通して町は確立された。1180年にフランス王から商業特権を授けられ、国際的な銀行業と貿易業の重要地となった。14世紀より、生地作りと羊毛産業で名声を成し、相当な富を蓄えた。それは優れたタペストリーの生産で特に知られていた。英語でArras、イタリア語でArrazziと言えば、タペストリー全般を意味していた[3]。裕福な生地商人が町が重要な文化中心地となるのを請け負った。詩人ジャン・ボデルやトルバドゥールアダン・ド・ラ・アルなどはアラスに自宅を持っていた。

しかし町の所有権は繰り返し争われ、アルトワ地方の残りと同様抗争を繰り返した。中世の間、アラスの領有権は多種多様な封建領主と封土の間を転々とした。フランドル伯ブルゴーニュ公スペイン・ハプスブルク家、そしてフランス王家である。1435年に町はアラス会議の地となり聖ヴァースト修道院でフランス・イングランド・ブルゴーニュ間の会議が開かれた。この会議で百年戦争を終結させようと試みて失敗し、ブルゴーニュはイングランドとの同盟関係を破棄、代わりにフランスと和睦したのである(アラスの和約)。

1477年にブルゴーニュ公シャルル(大胆公)が死ぬと、フランス王ルイ11世がアラスを管理下に置いたが、住民たちはフランス王よりもブルゴーニュ公へ忠義を尽くしたので、追放された。これを促したルイ11世は猛攻をかけアラスを獲得後、町壁を壊させ、住民を追放し、替わってさらに王家に忠実な、フランスの他の場所からやってきた人々と入れ替えた。町のアイデンティティーを完璧に高めたと述べ、ルイは短期間だけ町の名をフランシズ(Franchise)と改名した。1482年、アラスの和約が町で結ばれ、ルイ11世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世間の対立が終わった。10年後、町はマクシミリアン1世へ割譲され、スペイン・ハプスブルク家の治めるネーデルラント17州(のち南ネーデルラント)の一部として遺譲された[4][5]

アラス連合(en:Union of Atrecht、オランダ語でアトレヒト同盟)は1579年1月に、ネーデルラントカトリック代表によって署名された。彼らカトリック派は、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世に対し忠義を持ち続けた。同じ月に、ネーデルラントのプロテスタント諸国が中心となり、ユトレヒト同盟が結成された。戦争で荒廃したアラス中心部、1919年

第一次世界大戦中、アラスは前線近くにあり、1917年のアラスの戦い(英語版)で知られる長い軍事作戦の舞台となった。これは市の地下にある中世のトンネルの一続きが決めてとなり(ドイツ軍はトンネルの存在を知らなかった)、イギリス軍がアラスを奪取することにつながった。しかし、市は壊滅的な被害を受け、戦後に再建を余儀なくされた。

第二次世界大戦では、1940年5月、ナチス・ドイツのフランス侵攻が始まると、ドイツ国防軍は早々にアラスに到達。5月21日、レイノー首相は国会でアラスが占領されたことを報告した[6]。近郊ではアラスの戦いが行われたが連合国軍側が敗退した。占領下の市内ではアラス・シタデルの中でレジスタンスと疑われた240人の人々が処刑された。
アラスのキリスト教会史

6世紀、ランス大司教レミギウスが、メロヴィング朝の王クロヴィスの教師であった聖ヴァーストをアラス司教としたのに始まる。彼の後継者ドミニクスとヴェドゥルファスはどちらも聖人に列せられた。後、アラスの司教座はカンブレーへ移されたが、1093年より再びアラス単独の司教座となった。

アラス司教座には、2つの聖遺物が伝わっている。『聖なるマナ』は、過酷な飢餓に見舞われていた371年に天から降ってきたと言われるものである。『聖なるロウソク』は、1105年、疫病の流行を止めた聖母が聖ランベールへ与えたと言われるものである。

1025年、キリスト教の秘蹟を拒絶するマニ教に対抗するためアラスで公会議が開かれた。
見どころタウン・ホールと鐘楼英雄広場にある市場アラス大聖堂


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