アメリカ陸軍情報部
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アメリカ陸軍情報部[1](アメリカりくぐんじょうほうぶ、英語: Military Intelligence Service、MIS)は、第二次世界大戦期にアメリカ陸軍が有した部局である。

戦略的情報および戦術的情報の収集および分析を目的とした[2]。第二次世界大戦中のアメリカ陸軍には、MISの他に信号保安局(Signal Security Agency, SSA)、防諜隊(Counter Intelligence Corps, CIC)といった諜報機関が設置されており、これら3組織の隊員は世界中で活動していた。

太平洋戦線には日系2世の将兵で編成された語学要員部隊が派遣され、翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問といった任務に従事し、戦後の対日占領任務にも参加した。また、リッチー・ボーイズとして知られるドイツ・オーストリア系隊員による語学要員部隊も存在した。
概要

アメリカ陸軍情報部(MIS)に先立つ情報機関としては、第一次世界大戦中に設置された軍事情報課(Military Intelligence Division, MID)があった。MISを始めとする3組織はいずれもMIDおよび参謀第2部(Army G2)の指揮下にあった[2]

MISが設置されたのは1942年3月のことである。第二次世界大戦のほとんどの期間を通じて、ヘイズ・A・クローナー准将(Hayes A. Kroner)が部長を務めた。MISの任務は戦略的情報および戦術的情報を収集・分析し、これの周知に努めることであり、前線に派遣されたMIS隊員は捕虜尋問官や情報分析官といった職を務めた。バージニア州フォート・ハント(英語版)内には、MIS管理下のドイツ人高官尋問施設があった。カリフォルニア州のトレイシー収容所(Camp Tracy)も類似の役割を持った施設で、日本人はこちらに送られた。MISによって収集された情報は、ロンドンおよびワシントンD.C.にある軍事情報研究部(Military Intelligence Research Section)のオフィスへ持ち込まれて分析を受けた[2]

情報紀要(Intelligence Bulletin)は、MISが収集・分析した情報を元に作成された冊子である。枢軸軍の戦術や兵器に関する最新の情報を伝えるべく、前線の将兵に配布されていた[3]
日系人部隊

真珠湾攻撃の1ヶ月前にあたる1941年11月、サンフランシスコ・プレシディオ(英語版)のクリッシー陸軍飛行場(英語版)内にて第4軍情報学校(Fourth Army Intelligence School)が設置され、まもなくMIS語学学校(MIS language school, MISLS)と改称された。MISLSの校長は日系将校ジョン・F・アイソで、その他に日系人インストラクターであるアーサー・マサジ・カネコ、シゲヤ・キハラ(木原重彌)[注釈 1]、アキラ・オシダ(押田章)、テツオ・イマガワ(今川哲夫)の4名と、60名の生徒(うち58名は日系人、2名は日本居住経験のある白人)が所属した。1942年5月には最初のMISLS卒業生がアリューシャン列島南太平洋の戦地に派遣されている。同年5月25日、軍事地域から全ての日系人を排除する旨の命令により、MISLSはミネソタ州キャンプ・サベージ(英語版)へ移動し、1944年8月には同州のフォート・スネリング(英語版)への移転に伴いその規模が拡大された[4]。MISLSは終戦までに約6,000人の卒業生を送り出し、そのうち85%が日系人だった[5]。MISに所属した日系将兵の多くは帰米2世(日系2世のうち、日本で教育を受けた後にアメリカへ移った者)であった[6]

MISLSの授業では、日本語の読み書き・会話翻訳通訳草書の読み方や捕虜尋問、『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語、日本の地理歴史文化といった、前線の日本兵から入手した手紙日記地図等の押収文書の翻訳や、日本兵捕虜の尋問の為に必要な基礎知識となる広範囲な科目を、6か月という短期間で集中して教え込まれた。日本語と英語のどちらかが不十分な生徒は、その訓練期間を9か月?1年に延長された。1週間の授業時間も、平日は9時間、土曜も4時間という極めてハードなスケジュールが組まれていただけではなく、膨大な量の宿題も出され、消灯時間を過ぎても明かりを求めて、トイレで勉強する学生も少なくなかったという[7]

オーストラリアブリスベーン郊外にある連合国軍翻訳通訳部(英語版)に配属されたMIS隊員は、海軍乙事件の際には、現地の抗日ゲリラ福留繁から奪い取った新Z号作戦計画書の解読並びに翻訳に尽力した。

ホーイチ・“ボブ”・クボ三等軍曹は、第27歩兵師団(英語版)へ配属された事に伴い、サイパン島に派遣された。7月9日に同島における戦闘が終わった後も、8名の日本兵が122名の民間人を人質に、洞窟に立て込もっていた。その事を知ったクボは、7月26日午前10時に、武器は拳銃1丁だけを持ち、1人で洞窟へ向かった。持参したKレーションを日本兵達に分け与えたうえで、クボは彼らに対し、戦後日本の復興に尽くすべく、投降したうえで、生きて帰国する事を、日本語で根気強く説得し続けた。日本兵は、2時間に亘る説得にも応じようとしなかったうえ、自分達と同じ容貌と言葉を用いるクボに、アメリカの為に戦う理由を質した。それに対しクボは、平重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という言葉を引用し、大切な2つの祖国に板挟みとなり、葛藤に苛まれている自身の立場と心情を訴えた。それを聞いた日本兵達は、クボに非礼を詫びたうえで、洞窟から去るよう要求した。クボは、同日午後2時がタイムリミットであり、それまでに投降しなければ、ダイナマイトで洞窟を爆破する旨を伝えた。


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