アメリカ路面電車スキャンダル(アメリカろめんでんしゃスキャンダル、英語: Great American Streetcar Scandal)[1]とは、ゼネラルモーターズ、ファイアストン、シェブロン、フィリップス石油(Phillips Petroleum Company、後のコノコフィリップス)などによって設立されたナショナル・シティ・ラインズ社(NCL: National City Lines)によって20世紀中ごろにアメリカ合衆国中の路面電車網が買収され、廃止されてバスに置き換えられたという陰謀論である。この陰謀論では、NCL社にはアメリカの一般大衆に自動車を買わせようとする隠れた意図があったものとされている。
NCLに買収された各路面電車網に対して、他社のものではなくGM製のバスを買わせようとした陰謀でシャーマン法に違反したとして有罪となり、ゼネラルモーターズは5000ドル、各重役は1ドルの罰金を科されたことは事実であるが、NCLが所有していない路面電車網でも路線の廃止が進められていたため、この罰金は路面電車を廃止したことに対するものではなかった。 1936年から1950年にかけて、NCL社は45都市で100以上の電気鉄道を買収した。これにはデトロイト、ニューヨーク、オークランド、フィラデルフィア、フェニックス、セントルイス、ソルトレイクシティ、タルサ、ボルチモア、ミネアポリス、シアトル、ロサンゼルスなどが含まれている。そしてNCL社はこれらの路面電車をGM製のバスへと置き換えた。この話は書籍の「ファストフードが世界を食いつくす」や映画の「ロジャー・ラビット」の中でも取り上げられている。ブラッドフォード・スネル (Bradford Snell) という人物が1974年に上院公聴会で証言したことが、今日のアメリカの大衆文化におけるこの陰謀論の定着をもたらしている。 この話では、カリフォルニア州において大規模な電鉄網の廃止が行われた後に州間高速道路の最初の建設が始まったことから、州間高速道路をもう1つの犯人であるとしている[2]。 他の説では、内燃機関の発明とそれに伴う自家用車とバスの進出によって路面電車は消滅したのだというものがある。一時期、人口1万人以上のアメリカの都市はほとんど全てに路面電車の会社が存在していた。この時期、全体の95%の路面電車網が私有であった。「ゼネラルモーターズが陰謀をめぐらして、『効率的な』路面電車を『汚い』バスに置き換えて、国中の交通を破壊した」というスキャンダル提唱者の説は事実ではなく、「多くの本や記事で取り上げられている」というのも事実ではない[3]。「ゼネラルモーターズは多くの交通企業の株を確かに買ったが、しかしその目的は単に既に路面電車からバスへ転換していたこれらの会社に対して自社ブランドのバスを買わせようとすることであった。このことに対する単純な証拠としては、ゼネラルモーターズはアメリカ中の公共交通網のごく一部しか支配していなかったし、1949年以降は全く支配していなかったことが挙げられる」[4] 電動機は内燃機関に比べてはるかに単純であり、また舗装道路の上をゴムタイヤで走行する自動車ほど凝ったスプリング機構を鉄のレールの上を走る鉄道車両は必要としていないので、路面電車それ自体はバスよりも保守に経費が掛からず、はるかに耐用年数が長い。1930年代の古典的なPCCカーは1970年代に至るまでトロント、サンフランシスコ、フィラデルフィア、クリーブランドで運用されており、サンフランシスコ市営鉄道では今でもなお毎日運行している。しかしながら、路面電車の会社は自分たち自身の線路を自前で保守しなければならないのに対して、バスは公的に保守されている公道を走行する。これに加えて、線路や架線を保守するためには運行を中断しなければならず、ある期間運賃収入が得られなくなる上にその間にバスや自家用車への旅客の逸走を招く。世界恐慌の期間中、路面電車の会社は資本市場から資金を獲得することが困難であったため、コストの掛かる線路や架線の保守作業を行う費用を調達することはほとんど不可能であった。需要が低い上に路面電車の会社は大衆に不人気であったため(下記を参照)、運賃を値上げすることは難しく、バスへ転換することが望ましいとされた。 バスを導入することによるより大きなコスト削減は、その当時の労働法制によるものであった。全国労働関係法が導入されるはるか以前から、多くの州で路面電車網は規制事業とされ、その従業員に団体交渉権が与えられていた。結果として、1910年代から1930年代にかけて、車掌の乗務を廃止してワンマン運転に移行しようとした路面電車網は交通関係の労働組合のストライキに遭うことになった[要出典]。一方で、交通関係の労働組合は通常バスに対しては2人乗務を要求しなかった。このためバスに転換することで莫大な人件費削減の可能性があり、多くの交通事業者がトロリーバスや内燃機関式のバスへと転換を促されることになった。 1910年代後半頃から、まず都市の中心業務地区から、後には都市の他の地域でも、自動車の渋滞は専用の交通路を持たない交通事業者にとって著しく妨害となるほど酷くなってきた。ロサンゼルスのダウンタウンにおける渋滞は1920年代前半にはとても酷くなってきていたので、パシフィック電鉄は自己資金でハリウッドやサンフェルナンド・バレーへの系統が利用する全長1マイルほどの地下鉄を建設したが、これらの路線は利益が出るものではなかった。自動車の渋滞は公共交通機関の車両を遅らせて、乗客にとっての利便性を低下させ、自動車への転換を招き、より増加した自動車がさらに公共交通機関の利便性を悪化させた。これはバスに対しても路面電車にとっても同様に働いたが、バスは混雑の少ない経路に変更することができたのに対して、路面電車やトロリーバスが経路を変更するためには建設工事が必要であった。 バスが実用的に運行されるようになると間もなく、乗合タクシーが路面電車の競合者として出現した。乗合タクシーは、しばしば路面電車と同じ経路で運行しながら、表通りから奥に入り込んで乗客を集めていた。経済学者のウィリアム・フィシェル (William Fischel) は、貧困層の移動可能性がバスにより向上したことが、1920年代の都市ゾーニングに関する法令の広がりの原因であるとしている。なぜならば、公共交通に依存した層は路面電車の路線から徒歩圏内に住む必要がなくなり、それまでは距離の問題でアクセス不可能であった地域に住宅を建設することが可能になったからである[5]。これに対応して、多くの路面電車事業者はその路線沿いの公共交通に対して独占権を獲得しようと動き、そして実際に獲得した。例えば、パシフィック電鉄はロサンゼルス市議会にうまく働きかけて、乗合タクシーが市内で営業することを禁止することに成功した。競争がなくなったことにより、多くの路面電車会社は利益のあまりない路線での営業を削減し、または廃止し、利益の上がる路線では運賃値上げを行った。 サミュエル・インスル (Samuel Insull
陰謀論の背景
陰謀論に対する他の説
資本コスト
人件費
混雑
乗合タクシー・独占・公営化