アメリカ極東陸軍
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アメリカ極東陸軍
創設
1941年7月26日
廃止1942年4月18日(休止)
再編成1943年2月26日
所属政体 アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ陸軍
部隊編制単位
所在地ルソン島
愛称ユサッフェ (USAFFE)
担当地域フィリピン
南西太平洋(1943年-)
主な戦歴太平洋戦争
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アメリカ極東陸軍(あめりかきょくとうりくぐん, U.S. Army Forces Far East, USAFFE)とは、太平洋戦争時にフィリピン防衛のために設置された、駐留アメリカ陸軍及びフィリピン陸軍の合同部隊である。極東アメリカ陸軍、米比軍、あるいは頭字語からユサッフェとも呼ばれる。フィリピン陥落後も元将兵らが「ユサッフェ」を名乗って抗日ゲリラとして活動した。
沿革
前史フィリピン・スカウトの37mm対戦車砲部隊。1941年頃の訓練の風景。

米西戦争後にアメリカ合衆国によって植民地化されたフィリピンは、独自の軍隊を持たなかった。フィリピン警察軍(英語版) (PC) が、一般警察機能に加えて多少の武装を備えている程度だった。フィリピンの防衛については、アメリカ軍の駐留部隊が全責任を負っていた。駐留アメリカ軍の主力は1913年に設置されたアメリカ陸軍フィリピン部(英語版)で、約1万人の兵力を有し、うち半数はフィリピン・スカウト(英語版) (PS) と呼ばれる現地人志願兵から成っていた[1]

1935年にフィリピンの独立方針が決まると、独自のフィリピン軍の創設が着手された。フィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)の初代大統領となったマニュエル・ケソンの要請で、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー少将ドワイト・D・アイゼンハワー少佐らが軍事顧問として派遣された[1]。マッカーサーらは、独立予定の1946年までに常備軍1万人(従来の警察隊員6千人を含む)と予備役40万人のフィリピン陸軍 (PA) を整備する計画を立案した。フィリピン全土を10個管区に分けて、有事の際には各管区で7500人規模の予備役師団を編成、常備師団1個と合わせて11個師団となる計算だった。この計画には魚雷艇36隻を有する沿岸警備部隊と、高速爆撃機100機を有するフィリピン陸軍航空軍も含まれていた。マッカーサーは、計画達成の暁には、あらゆる侵略に対抗できる自衛戦力が備わると評価していた[2]。しかし、財政的問題や士官の不足などから、その整備はゆっくりとしたペースであった。
創設フィリピン陸軍航空軍に対して訓示を行うダグラス・マッカーサー。(1941年8月15日)

日米関係が悪化して軍事的緊張が高まる中、1941年前半から、極東方面の連合国軍部隊を指揮する高等司令部の設置が検討され始めた。同年6月頃には検討が本格化し、日本の南部仏印進駐の動きに応じて、7月26日にアメリカ極東陸軍の創設として実現した[3]。その司令官には、1937年に退役していたダグラス・マッカーサー(当時はフィリピン陸軍元帥)が、少将として現役復帰して着任することになった。人選の背景には、マッカーサー自身の積極的働きかけと、彼のフィリピンなどでの豊富な経験への期待があった。なお、マッカーサーの階級は、翌27日に中将、太平洋戦争開戦後は大将へと進んでいる。

米極東陸軍司令部はマニラに設置された。駐留アメリカ軍と軍事顧問から集められた司令部の職員は、40歳代後半が中心の若い構成となった。その指揮下には、既存のアメリカ陸軍フィリピン部のほか、戦時態勢に移行したフィリピン陸軍部隊も収まることになった。これにより、初めてフィリピン駐留アメリカ軍とフィリピン陸軍の指揮系統が統一された[4]。以後、米極東陸軍司令部が作戦計画・軍備計画立案と指揮の中心となり、フィリピン部司令部の機能はフィリピン陸軍の教育管理など後方部門に限定された。10月にはフィリピン部司令官もマッカーサーが兼任するようになった[5][注 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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