アメリカ大使館爆破事件
場所 ケニア・ナイロビ
タンザニア・ダルエスサラーム
日付1998年8月7日
標的ケニアのアメリカ大使館
タンザニアのアメリカ大使館
攻撃手段自爆テロ
死亡者224人(ケニアとタンザニアの合計)[1]
負傷者5000人以上[1]
容疑者アルカーイダ
テンプレートを表示
アメリカ大使館爆破事件(アメリカたいしかんばくはじけん)は、ケニアとタンザニアにおかれたアメリカ合衆国の大使館が爆破された爆弾テロ事件である[2]。この事件は国際テロ組織アルカーイダが関与したと断定したアメリカは、ミサイルによってスーダンとアフガニスタンを攻撃した。 1994年、テロリストはケニアの首都ナイロビに福祉団体「ヘルプ・アフリカ・ピープル」[3]というNGO系の事務所を開設した。彼らはこの事務所を隠れ蓑[3]とし、大使館攻撃の準備を行っていたと考えられている。事件の前にはトラック爆弾を具体的に知らせる密告、警備責任者から自動車テロ対策の脆弱性の指摘があったが、在ケニア大使からの報告に対してCIAや国務省の対処はなかった。[4] 1998年8月7日の10時40分(現地時間)、実行犯はアラブ人街のヒルトップホテルに集合し、爆薬を満載したトラックで出発した。トラックはアメリカ大使館の裏手に回り、実行犯1名を降ろした。彼は大使館敷地に手榴弾を投げ込み爆破した。トラックは大使館の正門に回り、手榴弾の爆発を合図に大使館内に突入、同時に爆薬が炸裂してトラックもろとも自爆した。 この自爆攻撃によってビル内にいた大使館員と民間人など213名が殺害され、5000名以上が負傷した。アメリカ大使館自体は非常に丈夫に建設されていたためにたいしたダメージはなかったものの、その反動で爆発の影響が隣の民間ビルに集中しコンクリート製の建物は完全に崩壊した。瓦礫の山となったアメリカ大使館の隣のビルの映像は世界に配信され、多大な衝撃を与えた。 8月7日同時刻、タンザニアの首都ダルエスサラームのアメリカ大使館も同様のトラック攻撃に遭い11人が死亡、77人が負傷した。 これらの攻撃は「イスラム聖地解放軍」が犯行声明を出した。聖地エルサレムのあるパレスチナを占領するイスラエルと、メッカ・メディナのあるサウジアラビアに湾岸戦争以来駐留している米軍の撤収を命じるもので、1996年にサウジアラビア東部のダーランにある米軍官舎が爆破攻撃され、19名が死亡した事件が思い出された。 ジハード団(EIJ)の幹部メンバー4人が事件の2ヶ月前にCIAの捜査でアルバニアで逮捕され、エジプト当局に引き渡された。このことからアメリカに対し報復テロがあるだろうと警戒されていた中での惨事だった。さらに大使館爆破が8月7日となったのは、湾岸戦争でアメリカ軍が聖地を有するサウジアラビアに駐留を開始した日で、その8年目にあたったことから、ウサーマ・ビン・ラーディンが決定したものであった。ソマリア内戦への報復の意味もあったとされる。イスラム聖地解放軍はEIJが用いた別名に過ぎないが、爆発物の性質から、西側各国はこの事件以来、EIJとウサーマ・ビン=ラーディンやアイマン・ザワーヒリーのアルカーイダの密接な繋がりに注目することになった。 エジプト大統領ホスニー・ムバーラクはテロ直前の7月14日、エジプト海軍学校の卒業式での講演の中で「世界中がテロの舞台となりうる」と述べたばかりであった。
事件の経緯