アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件(アメリカがいこうこうでんウィキリークスりゅうしゅつじけん)は2010年11月28日よりウィキリークスでアメリカ合衆国の機密文書が公開された事件。通称Cablegate[1]。
11月28日、251,287件の文書の内、219件がエル・パイス(スペイン)、ル・モンド(フランス)、デア・シュピーゲル(ドイツ)、ガーディアン(イギリス)、ニューヨーク・タイムズ(アメリカ)によるマスコミ報道によって同時に公開された[2][3]。
文書の内訳は、機密扱いされていない (Unclassified) 文書が130,000件以上、秘 (Confidential) 文書が約100,000件、高レベルの機密 (Secret) 文書が約15,000件、極秘 (Top secret) 文書はなし、である[2][4](Classified information
を参照)。ウィキリークスは当初、全ての公電を数カ月をかけて公開することを計画したが[3]、後述の通り2011年9月2日に全25万通を公開した。流出データは元々バグダッド近郊基地に駐屯する情報下士官のブラッドリー・マニングが国防省のSIPRNetネットワークからレディー・ガガの音楽CDに見せかけたCDで持ち出したとみられている[5][6]。
2010年11月22日、ウィキリークスは米軍に関する過去の機密文書をまとめて公開する準備をしているとTwitter上で公表[7]。26日、マイケル・マレン統合参謀本部議長はウィキリークスに対して中止を求めた[8]。28日、ウィキリークスがアメリカの秘密外交文書約25万点を公開開始。ロバート・ギブス報道官は直ちに「最も強く非難する」との声明を発表した[9]。
以後、ウィキリークスは一日に数十の文書を公開していくという手法をとったが、協力関係にあったガーディアンの記者が2011年2月に出版した著書の中に公電を閲覧するためのパスワードが書かれ[10][11]、未編集版の公電が誰でも閲覧可能な状況になってしまったことを同年8月に公表[12]。ウィキリークスは9月2日に全251,287通の文書公開に踏み切った。この際、伏字も行わなかったため、公電上に記載された情報提供者の名前まで暴露された[13]。一挙公開に至った背景には、前述のとおりパスワードが流出するなど、ウィキリークス自身が莫大な数の公電をコントロールしきれなくなったのが原因との指摘もある[12][13]。 約25万点の外交公電が公表、そのうち5,697点は東京発の公電で3番目に多かった。このうち1,660点が機密文書にあたる[14]。公電はあまりに数が多いため、その範囲も多岐に渡る。ここでは一部について記述する。
主な内容
各国の流出内容
欧州への核兵器配備確認文
オランダやベルギーなどに米軍戦術核兵器の配備を確認する文書が含まれていた。文書によれば2009年11月にドイツを訪問したフィリップ・ゴードン