アメリカ合衆国有色軍(英語:United States Colored Troops, USCT) は、兵員として主にアフリカ系アメリカ人を用いて編成されたアメリカ陸軍の連隊群である。ただし他にも太平洋諸島の有色人種やアジア系アメリカ人、インディアンなどもUSCT連隊に編入されて戦った。初めは南北戦争中に募兵され、1865年4月の同戦争終結時には175個連隊が存在して北軍兵力の約一割を占めた。後にはアメリカ西部でインディアン戦争に従軍しバッファロー・ソルジャーと呼ばれた。これはインディアンが彼らの髪をバイソン属の体毛に見立てた呼称である[1]。 1862年7月、アメリカ合衆国議会は第2押収法
歴史
押収法
1862年夏の第二次ブルランの戦いの敗戦などで北軍が後退したのを受け、リンカーンは北軍と交戦状態にある全ての州の奴隷を解放することとした。1862年9月、リンカーンは奴隷解放宣言の予備宣言を発布し、1月1日を以って叛乱州の全奴隷を解放するとした。1863年1月には本宣言が発布され、以後有色連隊の募兵が本格的に始まった[3]。
1863年5月22日、アメリカ合衆国旧陸軍省は一般命令第143号(en)を発令し、アフリカ系アメリカ人兵士の募兵を担当するアメリカ合衆国有色軍局を設立した[4]。以後、歩兵、騎兵、工兵、軽砲、重砲を含む各種連隊が北部州全域から募兵され、アメリカ合衆国有色軍(USCT)と呼ばれるようになった。
南北戦争最後の2年間では178,000人以上の自由黒人と解放奴隷から成る175個連隊が任務に就いており、危機的な時局において北軍を助けた。戦争終結時点のUSCT兵力は北軍全体の一割に相当した。USCTは南北戦争を通じて2,751人の戦闘被害を出し、その他の原因を含めて68,178人を失った。黒人白人を問わず最大の犠牲者を出した原因は病気だった[5]。
USCT連隊の指揮は白人士官が執り、黒人兵士の昇進は制限されていた。1863年末、フィラデルフィアの有色軍募兵監理委員会は有色軍への応募者のために無料軍事学校を開設した[6]。当初、黒人兵士は白人兵士より低賃金だったが、彼らと支援者のロビー活動により後に同額となった[7]。USCT連隊に所属した著名人としてはマーティン・ディレイニー(英語版)やフレデリック・ダグラスの子息などが居る。
南北戦争を通じて有色軍が示した勇気はアフリカ系アメリカ人が新たな権利を獲得する上で重要な役割を果たした。元奴隷で奴隷制度廃止運動家のフレデリック・ダグラスは次のように述べている。
ひとたび黒人に真鍮でできたU.S.の文字を身につけさせ、ボタンに鷲の徽章を許し、マスケット銃を肩にのせ銃弾をポケットに入れたならば、黒人が市民権を得る権利を得たことを、地上の如何なる権力であろうと否定できない[8]。
歴史家のスティーブン・ハーン(英語版)は、奴隷が自らを組織化して南北戦争を通じて北軍に協力した場合、USCTの幾つかの連隊を含め、その行為は他の何よりも大規模な奴隷反乱と看做せるのではないかと述べている[9]。 USCTが出来るより前、自由黒人から成る志願兵連隊が幾つか編成され、中には南部の解放奴隷も含まれていた。1863年、元奴隷のウィリアム・ヘンリー・シングルトン
志願兵連隊
1922年、シングルトンは自らの奴隷体験記を出版し、その中で奴隷から解放され北軍兵士となった経緯を描いた。後に95歳となったおり、彼は米国陸海軍人会(英語版)(Grand Army of Republic, GAR)の行事に参加して行進し旧交を温めた。 4つの連隊は補助部隊ではなく正規軍と看做されていた。彼らは兵役経験者として戦後も連邦政府で要職に就いたが、これは以前はアフリカ系アメリカ人には通常閉ざされていた。しかし公式な戦功褒章や叙勲は当初何もなく、これは20世紀に至ってやっと変化した。連隊名は次の通り。 Corps d'Afrique(アフリカ兵団)はルイジアナ州で編成された北軍部隊の中の一つであり、北軍によるニューオーリンズ占領後に編成された。
州志願兵連隊
第5マサチューセッツ(有色)志願騎兵連隊
第54マサチューセッツ(有色)志願歩兵連隊(en
第55マサチューセッツ(有色)志願歩兵連隊
第29コネチカット(有色)志願歩兵連隊(en)
Corps d'Afrique