アメリカ合衆国探検遠征隊
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アメリカ合衆国探検遠征隊
United States Exploring Expedition

アンデス山脈、ペルーのアルパルマルカ近く: 標高16,000フィートでスケッチ、アメリカ合衆国探検遠征隊の南アメリカ遠征でアルフレッド・トマス・アゲイト画、デジタル修復済み

時1838?1842
場所太平洋南極海大西洋北アメリカ南アメリカアジアアフリカオーストラリア南極大陸オセアニア
結果遠征の成功、ただし原住民との紛争が起こった

衝突した勢力
アメリカ合衆国 フィジー サモア タビトイア
指揮官
チャールズ・ウィルクス
ウィリアム・L・ハドソンサモア:
マリートア・モリ
戦力
2 スループ・オブ・ウォー
1 シップ
1 ブリッグ
2 スクーナー不明
被害者数
死亡または負傷: 30名まで
スループ・オブ・ウォー1隻沈没
スクーナー1隻沈没[1]フィジー:
死亡または負傷: 80名まで
タビトイア:
死亡: 12名

アメリカ合衆国探検遠征隊(アメリカがっしゅうこくたんけんえんせいたい、: United States Exploring Expedition)は、1838年から1842年にアメリカ合衆国が敢行した太平洋とその周辺の陸地を探検し測量した遠征隊である。当初隊長に指名されたのはトマス・アップ・ケイツビー・ジョーンズ海軍代将だった。この航海は1836年にアメリカ合衆国議会によって承認された。二人目に隊長に指名されたアメリカ海軍大尉チャールズ・ウィルクスに因み、ウィルクス探検隊と呼ばれることがある。この遠征はアメリカ合衆国の科学、とくにまだ若い分野だった海洋学にとって、非常に重要な成果を生んだ。太平洋のこのような遠征隊に慣れていなかった島人との間に紛争が生じ、数十名の原住民と共に数人のアメリカ人も殺されることになった。
遠征の準備南極大陸のディスアポイントメント湾で、USSビンセンズ、1840年初期

1828年5月、アメリカ合衆国議会はジョン・クインシー・アダムズ大統領に催促された後で、この国が大きな利益を得られるという諒解の元に、世界周航の遠征隊を派遣することを票決した。これは特に太平洋で、交易を促進し、投資額の大きい捕鯨やアザラシ猟に保護を与えることが目指された。議会は民間船を使うべきであることにも合意した。当時政府が所有し、そのような世界周航の旅に使える船は海軍のものだった。このために議会は事実上海軍の遠征を承認していた。1813年に建艦されたスループ・オブ・ウォーの老朽船USSピーコックが1827年に退役させられて壊され、1828年に新たにUSSピーコックとして建艦され、探検のための船と考えられた。予見できていなかった障害が多く、予算を承認する法が通過したのは1836年5月18日のことだった。財政的な重しは取れても、更に2年間は隊編成や指揮系統の修正があり、1838年8月9日になって、ノーフォークからハンプトン・ローズまで6隻の奇妙な取り合わせ船隊が動き出した。8月17日、補給船のシーガルとフライングフィッシュが加わった後で、ウィルクス大尉が最終命令を出し、8月18日午後3時、船隊は碇を上げた。微風だったので、ヘンリー岬灯台を通過した8月19日9時まで水先案内人を降ろさなかった。11時までにこの小さな艦隊は公海上に出ていた。

当初この遠征隊はジョーンズ海軍代将の下に編成されていたが、その後ジョーンズがその任務を辞した。さらに上級士官数人が辞任するか、あるいは遠征指揮を受けたくない意志を示していた。最終的に隊長はウィルクス大尉となった。課された3つの任務が、戦闘艦でのみ訓練を積んできた士官を怯ませることになった。探検に加えて、新しく発見した場所や既に発見されていた地域を測量することが任務になっていたが、それらについて十分な知識は無かった。さらに全てが文民の科学者部隊がおり、指揮官の責任に付け加えられた。当時測量の経験があるアメリカ海軍の士官は少なく、科学者と共に仕事をした者はいなかった。測量士の大半が雇用され、その業務を習ったアメリカ合衆国沿岸測量部は文民組織だった。実際に測量の訓練を受けていたウィルクスは科学者の過剰な数を9人にまで下げさせた。ただし、自分と他の海軍士官のために測量と地図製作を結びつける作業すべてなど、科学的な任務を引き受けていた。

科学者部隊には、博物学者植物学者鉱物学者剥製師文献学者が含まれた。船舶はスループ・オブ・ウォーのUSSビンセンズ(1828年建造、780トン)、同じくスループ・オブ・ウォーのUSSピーコック(1828年建造、650トン)、ブリッグのUSSパーポイズ(1836年建造、230トン)、全艤装シップのUSSレリーフ(物資運搬船)、補給線として機能するスクーナーのUSSシーガル(1838年建造、110トン)とUSSフライングフィッシュ(1838年建造、96トン)という陣容だった。

これと同時に、東インド戦隊の旗艦USSコロンビアに乗艦するジョージ・C・リード代将が、フリゲート艦USSジョン・アダムズと共に世界周航の過程にあり、回り道にはならない第二次スマトラ懲罰遠征のために泊まっていた。
遠征ルート

1838年8月19日土曜日9時にヘンリー岬灯台を通過した後、ウィルクスは一路リオデジャネイロを目指させた。ある危険箇所と報告されていた南緯10度、西経18度から22度の間の浅瀬を調査する命令を受けていた。この季節に特有の風を受けて、船隊は大西洋の東よりのコースを進んだ。

1838年9月16日、マデイラ諸島フンシャル港に到着した。幾らかの修繕を済ませた後、南に進路を取り、10月7日にはヴェルデ岬諸島(カーボベルデ)のポルトプラヤ湾に到着し、リオデジャネイロに着いたのは11月23日だった。アメリカからブラジルまで95日掛かっており、これは直行した場合の約2倍だった。ピーコックの修繕が必要だったので、リオデジャネイロを出港したのは1839年1月6日になっていた。そこからは南のブエノスアイレスリオネグロの河口を過ぎ、フランス海軍がアルゼンチンの海港を封鎖している側を過ぎた。当時のヨーロッパ列強はブラジルの助けを得て、アルゼンチン共和国の内政に干渉していた。しかし、この船隊がアメリカを出発する前に軍事能力を削っていたので、フランス艦船から困らせられることも無かった。

その後はチリティエラ・デル・フエゴペルーを訪問した。1839年5月に南アメリカ海岸で起きた暴風により、15人の乗ったUSSシーガルが行方不明になった。南アメリカからはトゥアモトゥ諸島サモアオーストラリアニューサウスウェールズを訪れた。1839年12月、シドニーから南極海に入り、バレニー諸島の西にある南極大陸を発見した。この大陸の一部は後にウィルクスランドと命名された。ウィルクス遠征隊の各船の記述違いと、それらが後に改変された可能性もあり、ウィルクス遠征隊とフランス遠征隊の間でどちらが先に南極大陸を視認したかについて議論がある。ウィルクス遠征隊は1月16日に海岸から175 kmにある「氷の島」を見て、海岸自体には1月25日に行っており、ジュール・デュモン・デュルヴィルフランス遠征隊は、1月20日に海岸を約400 km西方に見て、1月22日には本土から4 kmのジョルジー群島の小島に上陸し、鉱物、藻、動物の標本を採集していた。この議論には、USSパーポイズ艦長のキャドワラダー・リングゴールド大尉がデュルヴィルのアストロラブを視認した後で、慎重に接触を避けたというおまけがついた。

1840年2月、隊員の数人がニュージーランドで初のワイタンギ条約に調印する現場に居合わせた[2]

アストロラブを視認した後の遠征隊はフィジーを訪れた。1840年7月、隊員のアンダーウッド大尉とウィルクスの甥であるウィルクス・ヘンリー士官候補生の2人が、フィジー西部のマロロ島で食物を交換している間に殺された。この事件の原因は曖昧なままである。彼等の死の直前に、アメリカ人に人質に取られていた地元酋長の息子が、船から飛び出し、浅い水中を岸まで走って逃亡した。アメリカ人はその頭の上に発砲した。船上にいた隊員に拠れば、その逃亡はフィジー人が攻撃を開始する合図になるよう仕組まれていた。岸にいた隊員に拠れば、銃弾は実際に地上での攻撃を突発させた。アメリカ人は60人の水兵が上陸して、敵対する原住民を攻撃した。このアメリカ人による報復の結果として80人近いフィジー人が殺され、2つの村が灰燼に帰した[3]太平洋岸北西部オレゴン準州を示す1841年の地図、


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