アメリカ合衆国の警察
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本項では、アメリカ合衆国警察(アメリカがっしゅうこくのけいさつ)などの法執行機関について述べる。
概要

アメリカ合衆国は連邦制をとっており、連邦政府よりも州のほうが多くの権限を有している。特に警察活動については、イギリスから引き継いだ伝統や、地域的な特性もあって、古来より地域の秩序・平和を維持する責任は地域住民各々が負うべきであるという自治の意識が強い。このため現代に至っても、一般警察活動については、州よりも更に末端のレベルで、地域住民が選んだ公安職や、その延長線上として基礎自治体、またその他の公共団体が設置した警察組織(鉄道警察や公園警察など)が主体となっている[1]

このため、州や連邦政府の法執行機関は、ごく限られた特殊な領域を所掌するものが基本となってきた。しかし合衆国の発展や技術の進歩による社会情勢の変化に伴って、まず州、ついで連邦レベルでも一般警察活動を担当する組織が整備され、警察活動の統一化・規模の拡大が志向されている[1]

司法省による2008年の調査では、アメリカ全土で17,985個の法執行機関(state and local law enforcement agencies)があり、うち地域警察(local police departments)は12,501個、保安官事務所(sheriffs’ offices)が3,063個となっている[2]。規模別では、非常勤1名の組織から36,023名のニューヨーク市警察、13,354名のシカゴ市警察まで様々である[2]
来歴
イギリスからの導入と独立「アメリカ合衆国の植民地時代」および「アメリカ合衆国の歴史 (1776-1789)」も参照

イギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程で、多くの制度がイギリス本国から北アメリカに持ち込まれており、警察制度も同様であった[3]アメリカ合衆国の植民地時代の警察機構の由来となった、イギリスの代表的な公安職は下記のようなものであった。全てが日本では「保安官」と訳される。
シェリフ (Sheriff) 
国王から州(シャイア。 現在のカウンティの前身)ごとに派遣された代官。当初は「シャーリーブ」(Shire Reeve)と称されていたが、後に訛って「シェリフ」となった[4]
マーシャル (Marshal) 
裁判所の運営にあたる廷吏。法廷内の秩序維持や令状の執行、囚人の護送などにあたっていた[5]
コンスタブル (Constable) 
最初期は隣保組織の長(十人組長)がこう称されていたが、後に1年任期制・無給で地域住民から選ばれる法執行官を指すようになった[6]

イギリスでは、地域の秩序・平和を維持する責任は地域住民各々が負うべきであるという自治の意識が強く、家族や地域住民による隣保制の時代が長かった[7]。北アメリカの植民地でもこの理念は踏襲され、またアメリカ大陸の地理的条件などもあって、まずは隣保制や、その延長として地域住民に依拠した公安職が主となった[1]。例えばマサチューセッツ湾植民地の中心となるボストンでは、1631年より夜警制度が発足し、1634年にはコンスタブルが任命された[3]。その後植民が進むと、各植民地政府は植民地内を郡(カウンティ)に分割し、それぞれに代官としてシェリフを配した[8]。またこれらの郡のなかで、人が集まって町を形成した場所では法廷も開廷し、これに伴ってマーシャルも任命された[5]

アメリカ合衆国の独立期に整備されていた警察制度は、おおむね以上のようなものであった。また独立後の1789年、連邦政府も自らの法執行官として、独立十三州に1人ずつのマーシャル(連邦保安官)を配置した。なお集団的警備力が必要となった場合には、やはりイギリスと同様に軍隊が動員されたが、アメリカの場合は常備軍への抵抗感が強かったこともあり、主として州知事指揮下の民兵州兵の前身)に頼ることになった[3]
都市化と西部開拓の進展「アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)」および「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」も参照

独立後のアメリカの発展とともに、特に都市部での人口増に伴う犯罪率の増加と凶悪化が問題となった。この状況に対して、独立期以来の伝統的な公安職では対応困難であり、都市部にあわせた対策が求められた。まず1833年、フィラデルフィアに24名の昼間警察官と120名の夜警員による警察が発足したが、これは財政上の理由から2年間で廃止された。続いて1838年、ボストン市のマーシャルの指揮下に、コンスタブルと同じ権限を持つ専任の警察官が任命された。またまもなく、ニューヨークやフィラデルフィアでも同様の市警察組織が発足し、自治体警察の端緒となった[3]

独立十三州を始めとする東部では上記のような制度が整備されていた反面、西部開拓時代フロンティアでは管轄人口が少ないこともあって統治機構自体が小規模で、1人で多役を兼任することも多く、シェリフやマーシャル、コンスタブルの区別も曖昧になっていた。また特に開拓の最前線は実質的に無政府状態となっており、犯罪率も高かったのみならず、西部開拓はアメリカ先住民族の生存圏への侵略でもあったことから、彼らとの武力衝突も頻発していた。このため、開拓民は自警団を組織するとともに、銃の名手を用心棒として雇うことが多かったが、この用心棒もシェリフやマーシャルと呼ばれていた[3]

また開拓団の入植地ではこのような施策が講じられたものの、これらの間にある平原地帯は全く無政府状態であった。このため、ここを通行する銀行や鉱山の貴重品輸送車両駅馬車鉄道などの各事業者は自衛策を講じなければならなかった。当初は各事業者が個々に護衛を手配していたが、やがてピンカートン探偵社のような警備会社として組織化が図られた[3]
産業化の進展と組織化の試み「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」および「アメリカ合衆国の歴史 (1918-1945)」も参照

19世紀後半、南北戦争の後のレコンストラクションおよび西部開拓時代の終焉とともに、都市部への人口流入は更に加速し、移民の多様化とともに、治安の悪化が課題となった。また都市化とともに発達してきた自治体警察であったが、業務効率の悪さや腐敗が問題になり、公安委員会制度の導入など、試行錯誤しつつ警察管理の改革が図られた[3]

この時期、犯罪の広域化も問題になったことから、20世紀初頭より、州全域で一般警察業務を担当する州警察や、特に自動車の普及と道路の整備を受けて、街道上の治安維持を担当するハイウェイ・パトロールの発足も相次いだ。また同様の観点から連邦政府の警察機関の整備も進められ、1908年には司法省捜査局が設置され、1935年には連邦捜査局(FBI)に改編されて、現在に至っている[3]

しかし一方で、地域の法執行機関の改革は遅々として進まず、第一次世界大戦後の狂騒の20年代禁酒法に伴う犯罪の組織化や社会の変容に対抗し得なかった。


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