アメリカ合衆国の宇宙開発
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アポロ11号の打ち上げ

アメリカの宇宙開発(あめりかのうちゅうかいはつ)では、アメリカ合衆国が行っている宇宙開発について述べる。

アメリカは世界を代表する超大国としてソビエト連邦に対抗し、宇宙開発を行ってきた。アメリカはスプートニク・ショック以来早期に宇宙開発専門の部局であるアメリカ航空宇宙局 (NASA) を設立し、科学研究などは主にこの機関が行ってきた。一方で、軍事的な宇宙開発は国防総省が行っており、気象衛星の開発も予算は他の省庁であったりと、分野は違えど多くの資金が宇宙開発に投入されてきた。現在でもその金額は世界でトップである。到達以降はそれまでよりは宇宙開発に注ぐ力は減ったものの、依然として宇宙開発先進国として様々な事業を成し遂げている。

ロシア欧州中国などの発展著しい現在でも宇宙開発で重要な位置を占めている。現在は打ち上げ事業の民生化が進められており、政府は火星への有人飛行を目標にして開発を進めている。
歴史
開闢期ゴダードの液体燃料ロケット実験

アメリカのロケット開発はロバート・ゴダードにさかのぼることができ、彼は近代ロケットの父の一人に数えられている。ゴダードは援助の少ない中、ロケットの開発を進めた。ロケットは徐々に到達距離を伸ばしていったが、世間からは関心を受けなかった。第二次世界大戦に入ると、彼の技術は飛行機用のロケットに利用されるようになり、国がその開発を後押しした。ロケットは当時は威力の低い武器と見られていたが、ドイツV2ロケットで成功を収めると、軍は打ち上げ式ロケットに対しても興味を示すようになった。
第二次大戦前後

第二次世界大戦の末期にはドイツのロケット科学者はその技術から連合、共産両陣営がほしがった。科学者たちは亡命先にロシアよりもアメリカを選んだため、多くの科学者が貴重な資料やV2の部品と共にアメリカに渡った。ヴェルナー・フォン・ブラウンもその中の一人であった。彼はその才能をアメリカ陸軍弾道ミサイル局に買われ、本拠地であるレッドストーン兵器廠大陸間弾道ミサイル開発の競争やロケットの開発に力を入れた。

当時は核弾頭を運ぶためのキャリアとしての意味合いが強かったロケットは大陸間弾道ミサイルとして利用され、また、気象や大気の観測にも使われるようになった。その後、国際地球観測年に合わせてこのロケットによって地球を回る人工衛星で地球を観測し、ソ連を凌駕しようというオービター計画が生まれた。また、これにカメラを載せれば、将来的に相手を偵察することが出来る。アメリカはロケットの開発を進めたが、ロケットの開発が陸軍海軍空軍のどれに属するかでもめた。陸軍は大砲の延長として、海軍は気象観測のための重要機械として、空軍は空を飛ぶロケットは航空分野であるとしてそれぞれが権利を主張したためであった。このため、それぞれが独自に開発を行っていた。人工衛星の計画後、打ち上げに際しては陸海軍が合同で計画を行うはずであったが、気象観測を自らの分野として主張していた海軍の意見が取り入れられ、海軍が衛星を開発することになり、ヴァンガード計画がはじまった。
スプートニク・ショック打ち上げに失敗し爆発するヴァンガード

アメリカは1958年に衛星を打ち上げる計画を立てていた。しかし、優秀な科学者を擁していたにもかかわらず、ソビエト連邦がアメリカより先、1957年10月に人工衛星スプートニク1号をうちあげ、軌道に乗せることに成功した。これがスプートニク・ショックである。実際にはフォン・ブラウンの所属する陸軍は衛星を打ち上げることの可能なレベルの技術を持っていたが、衛星の打ち上げは海軍とされていたために、ソビエトに先を越されてしまった。

失地回復のためにアメリカ政府は海軍製作のロケット・ヴァンガードに衛星(ヴァンガードTV3)を載せて打ち上げようとするが、急遽計画されたこのロケットは爆発失敗する。アメリカが失敗する中、ソ連はさらにもう1台(スプートニク2号)の衛星の軌道投入に成功した。混乱の中、アメリカは陸海軍問わず早急に衛星を打ち上げることを要求した。陸軍と海軍の交渉の結果、陸軍が1958年1月に打ち上げを行うことが決まり、打ち上げの延期が何度も行われたが、最終的にエクスプローラー1号が打ち上げられ、アメリカ最初の衛星となった。また、その後は海軍がようやくヴァンガード1号の投入にも成功している。これらの事柄は米ソの宇宙開発競争に火をつけた。
有人宇宙飛行と月計画

この時期、アメリカは宇宙開発を強力に推進するための機構の必要性を実感し、航空全般の推進を行っていた国家航空諮問委員会(NACA)では宇宙技術に関する特別委員会が立ち上げられ、この組織は1958年10月1日付けでアメリカ航空宇宙局(NASA)となり、アメリカにおける非軍事の宇宙開発についてはすべてNASAが行うことになった。

ソ連はスプートニク2号にを乗せており、このことからも次に計画されるのは有人宇宙飛行であることは明らかであった。このためアメリカは当初弾道ミサイルのてっぺんにカプセルを取り付け、それによって宇宙へ行く計画を立てたが、これは早期に否定された。しかし、有人宇宙飛行を諦めたわけではなく、実際の実現に向けて新たに安全な計画が練られることになった。この計画はマーキュリー計画と呼ばれた。安全に人類を打ち上げるために何度ものテストを行い、1959年に軍のテストパイロットから7人の飛行士を選び出した。この7人はマーキュリー・セブンと呼ばれている。アトラスロケットの模型を前にするマーキュリー・セブン

また、米ソは衛星打ち上げ以降、月に注目するようになった。米国もソ連も月にめがけてロケットを打ち上げた。アメリカは月に探査機を送り込むか、ロケットを命中させるという計画を立てパイオニア計画として実行に移した。しかしながら技術水準が低かった当時は、大型のロケットの爆発や、月までの途中でロケットがとまり衛星が戻ってくる失敗なども起こった。このときもソ連はルーニク2号の月への到達、ルーニク3号による月面の裏側の撮影成功でアメリカをリードした。ソ連のリードはアメリカに対して技術的にソ連から大きく劣っているとの危機感を抱かせるに十分であった。また、これらの事柄はアメリカ人が宇宙開発に目を向けるきっかけを作った。このため、アメリカでは三軍、政府、議会、NASA、JPLなどの宇宙開発に関する計画を一元化し、月探査計画と惑星探査計画に結束して注力することになり、月探査計画としてレンジャー計画が発足した。

アメリカがマーキュリー計画の実験を終え、実際に有人宇宙飛行を行おうとしていた1961年4月12日、ソ連はユーリ・ガガーリンボストークに乗せて地球の衛星軌道を一周させて有人宇宙飛行を達成し、ガガーリンは世界初の宇宙飛行士になった。アメリカの有人宇宙飛行は同年5月5日に行われたが、これは弾道飛行であり、ソ連の実施した飛行内容と比べると大きな差があった。アメリカは2度ならず3度までもソ連に先を越されてしまったのである。また、ソ連は月に宇宙飛行士を送りこむ計画さえ立てていた。アメリカ国内では自嘲的な雰囲気が漂い始めていた。しかし、宇宙開発は転機を迎えることになる。1961年5月25日にはジョン・F・ケネディ大統領が1960年代の内に月にアメリカ人を送り込むと宣言したのである。アポロ計画の始まりである。
目指すは月「アポロ計画」も参照

レンジャー計画はもともとロケットを月に到達させて調査することを目標にしていたが、アポロ計画が始まって以降はより重要な意味を持つようになった。よくわかっていない月に人間を送るための十分な調査を行うことが目標となったのである。しかし、レンジャー計画は難航した。1号機から6号機まですべてが月の表面を撮影するという目標を達成することは無かった。しかし、これらの失敗を一回一回検証することで段階的に問題は改善された。レンジャー計画の結果はサーベイヤー計画に生かされ、月への軟着陸の研究が行われた。また、これらの情報は後の惑星探査にも生かされることになった。マリナー計画もこれらの探査の情報が大きく利用されている。

有人宇宙飛行ではジョン・グレンがアメリカ初の衛星軌道周回を成し遂げた。ソ連は着実に宇宙の滞在時間を伸ばしていたが、衛星周回の成功は大きな反響を呼んだ。一方、マーキュリー帰還船は操縦することも出来ないため、新たに宇宙船を開発することになった。マーキュリーの改造型の2人乗りの宇宙船を開発し、これはジェミニ計画の起点になった。ジェミニ計画ではより大型の帰還船が利用されるようになり、ロケットは大型のタイタンII GLVが使われるようになった。2人乗りが可能になり、ランデブー飛行やドッキング、宇宙遊泳の研究が行われた。

アポロ計画では当初月まで人間を送り込むのにどういう方式をとるかから議論され始めた。地上から月を往還可能な大型ロケットを打ち上げる方法のほか、地球周回軌道で必要なロケットを組み上げて月を目指すか、月に帰路のロケットを送り込んでおくか、月周回軌道へ幾つかの部品からなる宇宙船を送り込んで往還船だけを行き来させるといった多くの方法論が生まれた。初期には地上から月を往還可能なロケットの案が一番有力であったが、ヴェルナー・フォン・ブラウンなどの働きかけで結果的には月周回軌道へ幾つかの部品で出来た宇宙船を送り込む案で固まった。


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