アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史
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アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史(アメリカがっしゅうこくのどれいせいどのれきし、英:The history of slavery in the United States)は、イギリスバージニア植民地に初めて入植したすぐ後に始まり、1865年アメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で終わったことになっている。 1789年から1865年までのアメリカ合衆国の領土内で奴隷制を禁止または許可した地域を表している。
概要

動産としての奴隷制が拡がる前に、白人黒人などの間に典型的なものでは4年から7年の間で続く「年季奉公」と呼ばれる労働契約の仕組みがあった。1662年までに、アメリカにおける奴隷制は法令の整備によって制度化され、主にアフリカ人とその子孫(アフリカ系アメリカ人)、および偶にアメリカ州の先住民族にも適用された。17世紀の終わりまでには、アメリカ植民地の南部において奴隷制が一般化されたが、北部との程度差があった。

1640年代から1865年まで、現在のアメリカ合衆国領域内ではアフリカ人とその子孫が合法的に奴隷化されていたが、その所有者は圧倒的に白人であり、ごく少数が先住民や自由黒人であった。この奴隷所有者の大多数は南部にいた。南北戦争の前の時点で南部の4家族に1軒が奴隷を所有していた[1]。黒人の95%は南部に住んでおり、南部の人口に対しては3分の1に達していた。これに対して北部における黒人の人口比率は1%に過ぎなかった[2]

19世紀前半のアメリカ合衆国の富は黒人奴隷の労働の搾取に負うところが大きかった[3][4]。しかし、南北戦争における北軍の勝利により、南部の奴隷労働制は廃止され、南部の大規模綿花プランテーションはあまり利益を生まないものになった。北部の工業は南北戦争の前も戦争中も急速に成長を遂げ、南部の農業経済の落ち込みを補って余りあるものであった。アメリカ北東部の工業資本家が社会的および政治的事項を含め、国民生活の多くの面を支配するようになった。南部の農園主による貴族政治は影を潜め、南北戦争の後の急速な経済成長が近代におけるアメリカ合衆国産業経済の基盤となった。

17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ黒人がアメリカ大陸に渡った[5][6]。このうち、5.4%(645,000人)が現在のアメリカ合衆国に連れて行かれた[7]1860年のアメリカ合衆国の国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。
植民地アメリカ

植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船「ホワイトライオン」がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50?60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した[8]。このイスパニア船はマニラ慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、在英大使に譲渡された後に大使の親戚のマヌエル・メンデス・デ・アキューナに渡り、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説が2018年に提唱されている[8]。ホワイトライオンは交戦で損傷しており、さらに晩夏の大きな嵐によってその程度がひどくなった状態でバージニアのジェームズタウン(50km離れたハンプトンという説もある[8])に到着した。バージニア植民地は後に「大移住」 (1618-1623)と呼ばれる時期の最中にあり、住民は450人から4,000人にまで増えていたが、疫病、栄養失調、インディアンとの戦いによって極端に死亡率が高く、働ける労働者の比率は低いままであった[9]。ホワイトライオンは修理と補給物資を必要としており、植民地人は労働力を必要としていたので、奴隷20名と食料や用役とが交換された[8]。現代ではこの20名が北米大陸へ最初に上陸したアフリカ人奴隷と認識されている[8]

アフリカ人奴隷に加えて、かなりの数のヨーロッパ人が特にイギリス領13植民地に年季奉公として連れてこられた[10]。イギリスから渡ってきていたジェームズタウンの白人は、バージニア植民地で最初のアフリカ人を年季奉公として扱うことに決めた。ヨーロッパからの奉公人と同様に、アフリカ人も一定期間の奉公が終われば解放され、前の主人から土地や物資の利用が認められた。少なくとも一人、アンソニー・ジョンソンは最終的にバージニアの東海岸で土地所有者となり、自分でも奴隷を所有した。年季奉公の主要な問題は時間が経てば解放しなければならないことであったが、解放された者もその後に富を築いたかと言えばそうでもなかった。バージニア植民地の肥沃な海岸地域は既に1650年までには富裕なプランテーションの一族に占められており、元奉公人は下層階級になった。1676年ベイコンの反乱は貧乏な労働者や農夫が金持ちの土地所有者にとって危険な存在であることを示した。純粋に動産としての奴隷制に移行することにより、新しい白人労働者や小農は自分で移民してきて自活していける者達にほとんど限られるようになった。

年季奉公から人種を区別した奴隷制への移行は徐々に進んだ。バージニア植民地の初期の歴史には奴隷制に関する法律もなかった。しかし、1640年までに、バージニア植民地の裁判所は少なくとも一人の黒人従僕を奴隷と宣告していた。1654年、ノーザンプトン郡の裁判所はアンソニー・ジョンソンの奴隷であったジョン・ケイサーに終生資産(奴隷)であると宣言する判決を下した。アフリカ生まれの者は生まれつきイギリスの市民ではないので、イギリスの慣習法で必ずしも保護されていなかった。

1705年のバージニア奴隷法で奴隷の条件を明らかにした。イギリス植民地の時代、各植民地に奴隷制があった。北部の場合は主に家の従僕であった。南部の初期の奴隷は農園やプランテーションで働き、アイおよびタバコを栽培した。綿花は1790年代以降、主要作物になった[11]サウスカロライナ植民地では1720年に人口の65%が奴隷であった[12]。奴隷は海外との交易を行っているような裕福な農園主やプランテーション所有者に使われていた。僻地の必要最低限の生活をしているような農夫では滅多に奴隷を持てなかった。

イギリス領植民地の幾つかは新しいアフリカ人が秩序を乱すことを恐れて奴隷貿易を廃止させようとした。その効果を狙ったバージニア植民地の法案はイギリス本国の枢密院によって拒否された。ロードアイランド植民地1774年に奴隷の輸入を禁止した。ジョージア植民地を除いて、全ての植民地は1786年までにアフリカ人奴隷貿易を禁止するか制限するかした。ジョージア植民地も1798年にそれに倣ったが、幾つかの州の法はその後撤廃された[13]
1776年から1850年
第二次中間経路

アメリカ合衆国が西に拡がるに連れて、綿花の栽培も西に拡がって行き[14]、歴史家のピーター・コルチンは「既存の家族を引き裂いて、彼らが知っている人や物とは遠く離れた場所に移動させた」この移民は大西洋奴隷貿易の「多くの恐怖を(程度は低いかもしれないが)思い出させた」と書いた[15]。同じく歴史家のアイラ・バーリンはこの移動を第二次中間経路と呼んだ。バーリンは、このことをアメリカ独立戦争と南北戦争の間で奴隷の生活における「中間的出来事」として特徴付け、奴隷達が自発的に動いたのかあるいは単純に彼らやその家族が意に反して移動させられる恐れの中で生きていたのであれば、「大量移送が奴隷であれ自由黒人であれ、黒人の意識に負担となっていた」と書いた[16]


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