この項目では、アメリカ合衆国における政教分離原則の成立史(アメリカがっしゅうこくにおけるせいきょうぶんりげんそくのせいりつし)について解説する。米国で政教分離制度が成立するに至った背景として、イングランド(グレートブリテン王国)本国における国教会と非国教会または清教徒(ピューリタン)の対立、そして、イギリス帝国の北アメリカ植民地だった13植民地における政教関係がある。13植民地がアメリカ合衆国として独立した際に、信教の自由と政教分離(国教の禁止)は憲章として重視され、アメリカ合衆国は政教分離を国制とした史上初の世俗国家となった[1][2]。 イングランドは597年のカンタベリーのアウグスティヌスの渡英以降カトリック教会の一員であった。しかし、男子に恵まれなかったイングランド王ヘンリー8世がスペイン王女キャサリン王妃と離婚しアン・ブーリンと再婚しようとして教皇クレメンス7世に承認を求めた所、ローマ教会はキャサリンの甥に当たるスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の支配下にあったために教皇は承認できなかった[3]。これに反発したヘンリー8世は1529年からローマ教会の権限を制限していき、側近のトマス・クロムウェルの力を借りて次々とローマ教会と決別する法律を施行、1533年の上告禁止法ではイングランドは完全の独立国家であり、教会の決定権は国王にあると宣言した[3]。カンタベリー大司教(後にカンタベリー大主教に変更)トマス・クランマーは離婚と再婚を合法としたが、教皇は王を破門した[3]。1534年の国王至上法で国王をイングランド教会の首長としてイングランド国教会が成立し、ローマ教会から独立した[3][4]。こうして世俗国家による教会支配である国家教会体制が始まった[5][注釈 1]。 ヘンリー8世は修道院財産を没収し、さらに修道院解散を命じると、解散に反対した信徒がリンカンシャーやヨークシャーで蜂起(恩寵の巡礼、1536年)したが鎮圧された[3]。1539年には大修道院解散法で総計130万ポンドの修道院財産を没収したが、フランスと同盟を組んだスコットランドとの1544年の戦争での戦費供出のため、貴族、ジェントリへ売却した[3]。このようにイングランドの宗教改革はプロテスタントを反映しておらず、王もカトリックを信仰しており、主教制(教会内階層)も存続したままだった[3]。カトリック派のノーフォーク公トマス・ハワードやウィンチェスター主教は1539年の6カ条法で化体説にもとづき、パンのみの聖餐や告解が指示された[3]。 1547年にヘンリー8世が没し、幼少のエドワード6世が即位したが、ノーフォーク公から実権を握ったのはエドワード6世の母方の伯父でプロテスタントのハートフォード伯(サマセット公)エドワード・シーモアであった[3]。摂政(護国卿)となったサマセット公は6カ条法などプロテスタントを妨害する法を廃止、1549年の礼拝統一法
近世イングランドにおける宗教と国家
イングランド国教会の成立
初の女王となったカトリック教徒のメアリー1世は、ヘンリー8世時代以来の諸法を廃止しカトリック教会へ復帰した[3]。ローマからの使節レジナルド・ポールはカンタベリー大司教となった[3]。