本項ではアメリカン・コミックスにおけるクリエイターの権利(アメリカン・コミックスにおけるクリエイターのけんり、Creator ownership in comics)、特に著作権の帰属に関する慣習の移り変わりについて述べる。
アメリカにおいて、実作者が著作物に関するすべての権利を保有することはクリエイター・オウナーシップ (creator-ownership) といわれる。自己出版か商業出版かは問わない。小説などの出版分野では古くからクリエイター・オウナーシップが標準である一方、コミック出版では出版社が権利を所有するのが一般的であった。アメリカン・コミックスの主流を占めるスーパーヒーロー作品はこの伝統と深く結びついており、出版社が著作権者としてキャラクターや設定を管理するシェアード・ワールドが舞台となる。「クリエイター・オウンド作品 (creator-owned work)」という言葉は単に権利の所在を言うだけでなく、このような状況へのカウンターとしての文化的な意味を持っている[1]。
法律的には、米国のコミック作品は職務著作物 (work made for hire) として制作されるのが慣行だった。職務著作とは、職務としてもしくは委託によって作成された著作物について、雇用者もしくは発注者があらゆる著作権を原始的に取得する制度である[2]。この場合コミック出版社が著作権者となるため、クリエイターは自作の出版やライセンス事業に関して決定権を持たず、自分が生み出したキャラクターであっても自由に使うことはできない。単に著作権を譲渡したならば後に取り消す機会もあるが、職務著作ではそれもできない。これに対し、日本の著作権法は職務著作の範囲を米国より狭く設定しており、委託を受けて作成した著作物でも雇用契約が存在しない限り職務著作物とみなされない[3]。したがって日本の漫画家は基本的に自作の著作権を保持したまま、出版社に対し出版権の設定や、二次利用管理委託などを行っていくことになる[4][5]。
アメリカのコミッククリエイターと出版社の間では、著作権の帰属をめぐって長きにわたる争いが続けられてきた。1960年代にアンダーグラウンド・コミックが隆盛して以降は、作者の自己表現としてのクリエイター・オウンド作品が登場し始め、それらを専門に刊行する新興出版社も現れた。1992年にはメジャー出版社で活躍していたトップ作画家の集団がクリエイター・オウナーシップを求めてイメージ・コミックスを設立し、業界に大きな波紋を投げかけた。現在でも二大メジャー出版社マーベルとDCは自社が権利を所有する作品群を主力としているが、さまざまな出版社やインプリント(出版レーベル)から多様なクリエイター・オウンド作品が刊行されるようになっている[6]。 クリエイター・オウナーシップを巡る争いの歴史は、アメリカン・コミックスのパイオニアの一人であるリチャード・F・アウトコールト
初期
コミック・ストリップの黎明期
1909年に制定された著作権法は、職務著作物の権利は当事者間の合意がない限り雇用者に帰属すると定めた[10]。『クレイジー・カット』のジョージ・ヘリマンや『ポパイ』のE・C・シーガーなど、初期のコミック・ストリップ作家の多くは自作の著作権を持っていなかった[11]。 1934年、ジェリー・シーゲルとジョー・シュスター
ゴールデンエイジのヒーローたち
関係者らの予想に反して、スーパーマンはコミック界を牽引する大ヒット作となり、ヒーローコミックの一大ブーム(ゴールデンエイジ(英語版))を生み出した[14]。DC社の他誌でもスーパーマンが使われ始めたのに加え、シーゲルとシュスターによるコミック・ストリップ版も全米160紙に配信された[15]。コミックブック『スーパーマン』から得られる利益は1941年時点で年間95万ドル(2019年現在の価値は約1700万ドル[16])に上り、発行者ドーネンフェルドは同誌関連だけで年間50万ドルの報酬を得たと伝えられている。しかし、DCに雇用されて作品を描いていたシーゲルとシュスターは推定15万ドルの収入しか得られず、これに不満を抱いた[17]。DCが1944年に作者らの許可を得ることなくスーパーボーイという派生キャラクターを登場させたことも争いの種となった[† 3]。シーゲルとシュスターは著作権の奪還を求めて1947年に訴訟を起こした。しかし裁定は二人にとって不利なものであり、10万ドルの和解金と引き換えにすべての権利を手放すことを余儀なくされた[18]。
1909年法は著作権の保護期間を28年間と定めるとともに、更新手続きによりさらに28年間の延長を認めていた。