アメリカン・アニメーションの黄金時代
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アメリカン・アニメーションの黄金時代(アメリカン・アニメーションのおうごんじだい)は、1920年代の音声付きカートゥーン映画の登場に始まり、劇場用のアニメーションがテレビアニメーションに緩やかに衰退を始めた1960年代まで続いた、アメリカアニメーション史における一期間である。ミッキーマウスドナルドダックグーフィーバッグス・バニーダフィー・ダックポーキー・ピッグトゥイーティードルーピー・ドッグクマのバーニーポパイベティ・ブープウッディー・ウッドペッカートムとジェリー近眼のマグーなどの有名キャラクターがこの期間に生み出された。
黎明期

1927年の長編映画へのトーキー導入は映画産業を震撼させ、アニメーション産業もまた2年後に同様の改革期を迎えた。ウォルト・ディズニーは社運を賭けた博打に打って出て、自身初のトーキー短編アニメーション『蒸気船ウィリー』(原題:Steamboat Willie)を公開した。この作品はミッキーマウスが登場した3番目の作品である。このカートゥーン映画は記録的な売り上げを達成し、大衆を魅惑し、ディズニーが彼の経歴の中で成し遂げた幾つもの偉業の口火を切ることになった。

1930年代前半を通して、アニメーション業界は三つの派閥に分割されているように見えた。ウォルト・ディズニーとフライシャー兄弟、そして「それ以外」である。ミッキーはその驚異的な人気により、チャーリー・チャップリンと並ぶ世界で最も有名な銀幕のスター達の一人として迎え入れられた。ディズニーの触れる物はすべて黄金に変わるかのように見えた。ディズニー作品に基づく関連商品は、多くの企業を大恐慌による財政的な窮地から救い出した。またディズニーはこの人気に乗じ、アニメーションに更なる改革を加えた。映画における3ストリップ・テクニカラー方式の発達でディズニーの果たした役割は大きく(テクニカラー社はこの方式を完成させるにあたり、ディズニーと提携していた)、総天然色で上映された最初のアニメーション作品は、ディズニーの短編映画『花と木』(1932年、原題:Flowers and Trees)であった。また、ディズニーはライフライク・アニメーションの分野でも他の追随を許さなかった。ディズニーの制作スタッフたちは、二次元画像で描写されるアニメーションに遠近感を与えるマルチプレーン・カメラを開発し、『風車小屋のシンフォニー』(原題:The old mill)でそれを初めて導入。その結果、アカデミー賞二部門を受賞するという成功を得た。その一方で、大当たりしたディズニーの別作品『三匹の子ぶた』(1933年、原題:Three Little Pigs)では、脚本技術の発展と特徴的なキャラクター描写が強調された。この作品は複数のキャラクターの性格を描き分けた最初のアニメーション作品であると見なされている。『フェリックスと金の鵞鳥』(1936年)

1940年代までにディズニーの前には無数の競争相手が立ちはだかったが、いずれもフライシャーを除いて、ディズニーをその王座から追いやるには至らなかった。サイレント期、ディズニー以前に王座の位置にいたパット・サリヴァン・スタジオは、フィリックス・ザ・キャットをトーキー化しようとする不成功に終わった試みの後に、その最大の没落に直面していた。

1930年代から40年代初頭にかけて、アニメーションの品質においてディズニーと王者の座を争った競争相手がフライシャー・スタジオの代表者マックス・フライシャーであった。彼らは、ディズニーの『蒸気船ウィリー』が公開される何年も前から、多くの短編トーキーアニメーションを作ってきた。代表作としてあげられるのは、『おおメイベル(原題:Oh Mabel、1924年)』『懐かしいケンタッキーの家(原題:My Old Kentucky Home、1926年)』であり、前者は映像と音楽を、後者は映像とセリフを世界で初めて完全にシンクロさせたアニメーションである。しかし当時、電気式スピーカーを備えた劇場は極少数で、これらのトーキーアニメーションは余り注目を浴びなかった。こんなサイレント期を通じてアニメーションの改革と創作を行い続けてきたフライシャー兄弟は、ディズニーとは異なる都会的でハイカラなフライシャー独自のスタイルを生み出し、セクシーな『ベティ・ブープ』物とシュールな『ポパイ』物によって大当たりを飛ばした。特に、ベティ・ブープは戦前の日本でも大人気を博し、日本の美少女キャラクターの原型にもなったと言われている。また、1930年代のポパイの人気は当時のミッキーマウスのそれに匹敵し、ミッキーのファンクラブを模したポパイ・ファンクラブがアメリカ中で発生した。また、ロトスコープを採用した、ベティの短編3作品『ベティの家出(原題:Minnie the Moocher、1932年)』、『ベティの白雪姫(原題:Snow White、1933年)』、『ベティと山の老人(原題:The Old Man of the Mountain、1933年)』は、ジャズシンガーであるキャブ・キャロウェイを音楽に起用しており、そのうち、『ベティの家出』と『ベティの白雪姫』は、歴史的に永久保存されるべき作品として、アメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。さらにフライシャーは、三次元の奥行きを再現するため、「ロトグラフ方式」という撮影方式を開発した。それはカメラに平面のセルをセットし、その後ろに回転式テーブルの上に置いてあるミニチュアを置いて撮影する方式であり、後にディズニーが開発する「マルチプレーンカメラ」の元になったとも言われている。しかし、1930年代初期に最高潮に達した映画内の不道徳描写に対する抗議活動により、映画産業は1934年に映画内の暴力・猥褻描写を一掃するヘイズ規制(Production Code)を採用した。この自主検閲制度はミッキーマウスのようなカートゥーン作品にまで適用され、その行いを改めさせることを強制した。この変化の中でベティ・ブープからセクシーさを奪われたフライシャー兄弟はとりわけ手痛い打撃を受けた。1930年代後半配給元であるパラマウント映画の要求でディズニーを模そうとする浅はかな試みを行っていたが、『ポパイ』シリーズは依然として根強い人気を保っていた。

一方で元ディズニーのアニメーターヒュー・ハーマンルドルフ・アイジングは、ワーナー・ブラザースの配給するカートゥーン作品を制作する契約を1929年に結んだ。チャールズ・ミンツのスタジオを離れ、自身のスタジオを設立していた二人は、ワーナーのサイレント映画で字幕を担当していた、パシフィック・アンド・アーツスタジオに所属していた、レオン・シュレジンガーと契約を交わし、手始めにルーニー・テューンズパイロットフィルムである、『インク少年ボスコ』(原題:Bosko the Talk - Ink Kid)を黒人少年ボスコを主人公に制作、その翌年の1930年に、『ルーニー・テューンズ』の第1作『浮世風呂(原題:Sinkin' in the Bathtub)』をボスコ主演で公開、一躍ボスコは人気者となり、翌年の1931年には、より音楽を重視した『メリー・メロディーズ』が公開された。これらの作品は単体で見れば成功していたものの、ハーマンとアイジングはディズニーやフライシャー兄弟のような革新的な才能を欠いており、彼らの作品の多くは「かわいらしさ」という欠点ゆえに、観客に見た目のインパクトを与えるのに失敗していた。1930年代前半のハーマンとアイジングによるワーナー・ブラザース作品の多くは、今日では忘れ去られている。これらはカートゥーンの改革を志した正統派作品であったが、ディズニーやフライシャーの成功を模するには至らなかった。1933年に、ハーマン=アイジングは作品の質を上げる為に大きなスタジオ施設を要求したことに対しシュレジンガーと衝突。ボスコと共にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーへと去っていった。その後、ワーナー兄弟からの要求でシュレジンガーはワーナー系列のアニメスタジオであるレオン・シュレジンガー・プロダクション(Leon Schlesinger Production)を開設し、元ディズニーのアニメーターであるトム・パーマーやジャック・キングらをスタジオに招き入れた。彼らによって白人少年バディの短編が製作されたが、短命に終わった。

しかしながら、1935年にシュレジンガーが新しく雇ったアニメーション監督により、このスタジオは俄然活気を増すこととなった。テックス・エイヴリーである。ウォルター・ランツのスタジオに所属していたエイヴリーは荒々しく風変わりな作風のアニメーションをこのスタジオに持ち込み、ワーナーは一躍アニメーション業界の首位に上り詰めた。


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