アメリカインディアン運動
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AIMの旗。黒、黄、白、赤の4色はそれぞれ、四つの方角と、黒人、東洋人、白人、インディアンの連帯を示している。

「アメリカインディアン運動」(アメリカインディアンうんどう、AIM)は、アメリカインディアンの権利運動団体。
AIMの結成ワシントン記念塔の前でテントを貼るAIMメンバー

「AIM」は、1968年にミネソタ州ミネアポリスで結成されて以来、全米に支部を置き、多数のインディアン権利団体と連携する全米最大のインディアン組織である。結成以来、本部代表はクライド・ベルコートオジブワ族)が務めている。

1960年代、全米のインディアン部族は絶滅的危機にあった。100を超えるインディアン部族が連邦条約を打ち切られ、保留地の保留を打ち切られ、路頭に迷うこととなった。都市部のスラムに流入したインディアンたちは極貧の生活の中、白人社会の人種差別と暴力にさらされ、ささいな理由で刑務所に送られた。ミネソタ州の刑務所の囚人の7割は常にインディアンが占めていたのである。「AIM」は、こうした刑務所暮らしを強いられた若いインディアンたちによって起こされた。

1963年、ミネソタ州スティル・ウォーターの州刑務所で、オジブワ族のエディー・ベントンやクライド・ベルコートがインディアン囚人の自己啓発プログラムである「アメリカ原住インディアン・プログラム」を設立した。彼らはインディアン寄宿学校でインディアンとしての文化を奪われた世代であり、彼らはこのプログラムで、インディアンとしてのアイディンティティーを取り戻そうとしていた。1966年、この刑務所に投獄されたやはりオジブワ族のデニス・バンクス(英語版)がプログラムに参加したことで、「AIM」の構想が生まれた。オジブワ族のトム・ジョーンズによってプログラムは週二回開かれ、彼らは人種差別や貧困など、インディアンを取り巻く様々な問題について議論を戦わすようになり、当時新進の運動だった「SDS」や「ウエザーマン」、ブラックパンサー党について研究を重ねた。

1968年3月6日、リンドン・ジョンソン合衆国大統領が「インディアンの機会に関する国際会議(NCIO)」(National Council on Indian Opportunity)を設立させ、また「全米インディアン若者会議」による直接的な抗議デモに始まる、若い世代のインディアンたちの権利回復運動が各地でくすぶり始めた。この時期、仮釈放されたデニス・バンクスはトム・ジョーンズの下を訪ね、合衆国権力に対抗するインディアンの運動組織の構想を練っていた。7月、二人はミネアポリスのスラム「インディアン横丁」で、ジョージ・ミッチェル、クライド・ベルコート、ハロルド・グッドスカイ、エディー・ベントン=バナイと会い、結成式の参加者を募った。

同年7月28日午後8時、オジブワ族インディアンの若者たちは、ミネアポリス北部の古い教会のホールで、新しいインディアン権利運動団体の第一回結成式を開催し、300人以上のインディアンの老若男女を集めた。集会の中心となったのはクライド・ベルコートとデニス・バンクスの二人のオジブワ族と、インディアン女性たちだった。デニスは一時間にわたって演説を行い、「今こそインディアンは立ち上がる時だ」との言葉に会場が湧き返った。

ミネソタ州のセントポールやミネアポリス警察は、週末金曜日になると「パティワゴン隊」と呼ばれる警官隊を繰り出し、スラムのインディアンが集まる「インディアン・バー」を襲って「インディアン狩り」を行い、インディアンたちを不法逮捕して市の無償労働に充てていた。警察に刃向かったインディアンは問答無用で逮捕され、収監されるのである。集会では必然的に、この白人の暴力と市当局による不法逮捕、インディアンに対する人種差別への対策が議題となった。

権利運動の経験のあるクライド・ベルコートがこの組織の初代代表となり、明け方には次のような組織が作られて、当面の活動内容が決められた。これはAIMの運動の中心核となって、現在も継続されている。
「警察対策委員会」 - 市の警察署長と会見を行い、白人警官によるインディアンに対する暴力被害と不法逮捕に対する団体抗議行動を起こす。白人警官からインディアンを防衛する「インディアン・パトロール」を行う[1]

「住居問題委員会」 - インディアン・スラムの写真報告書を作成し、市の担当者と会見して改善要求を行う。

「差別教育問題委員会」 - 市教育委員会と会見し、教科書におけるインディアンの「野蛮人」表現の撤廃を要求する。

7月29日の晩から、警察対策委員会 はインディアンパトロール隊を結成し、数台の車を「インディアン・バー」に派遣して、「パティ・ワゴン隊」が来る前に酔ったインディアンたちを家まで送り、不法逮捕を防いだ。さらに白人警官による暴力や不法逮捕を証拠写真に撮って「人種差別などない」とする警察本部につきつけた。この結果、週末のインディアン不法逮捕は激減した。インディアンの若者が、警官に警棒で殴られる瞬間の証拠写真をもとにミネアポリス警察を訴追した裁判はインディアン側の完全勝利となり、市警察はインディアンの警官採用の要求にも応じるようになった。住居問題委員会の抗議は、3年後にミネアポリス市にインディアン低所得者用住宅の建設を実現させた。

同年9月、このインディアン団体の正式名称が「アメリカインディアン運動」(AIM)と決定する。当初ジョージ・ミッチェルによって仮につけられた団体名「憂慮するアメリカのインディアン」(Concerned Indian Americans)の略称が「CIA」となるため、変更となった。「AIM」の略称は、あるインディアン女性が「あんたたち男はいつも“目的(Aim)”、“目的”って言ってるんだから、いっそ“AIM”にすればどう?」と提案したことで決まったものだった。

その後も「AIM」は、ミネソタ中心に抗議行動を続け、ミネソタ州のインディアン保留地での漁猟狩猟権利を巡って、リーチレイク保留地からの「白人及び非インディアンの立ち退き」を要求して抗議行進を決行した。当時、州ではインディアンにのみ「狩猟法」が適用され、「密猟罪」の対象とされる一方、白人は自由に狩りや釣りをすることが出来た。「AIM」はこれまでのインディアン団体にない直接抗議を行うことによって、結果、ミネソタではインディアンに対する差別案件を劇的に減らすこととなったのである。

結成と同時に行動開始した「AIM」は、ミネアポリスだけでなく、他州やカナダの数多くのインディアン団体とも連携し、またたく間に「レッド・パワー運動」の旗頭となっていった。「AIM」はその後数年で、オハイオ州クリーブランド、ウィスコンシン州ミルウォーキー、イリノイ州シカゴ、ミネソタ州キャスレイク、サウスダコタ州ローズバッド・インディアン保留地、コロラド州デンバー、オクラホマ州オクラホマ市、ワシントン州シアトル、カリフォルニア州オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスといった都市部に支局を増やしていった。


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