アメリカひじき
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アメリカひじき
訳題American Hijiki
作者
野坂昭如
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『別册文藝春秋1967年9月号(101号)
刊本情報
刊行『アメリカひじき・火垂るの墓
出版元文藝春秋
出版年月日1968年3月25日
装幀永田力
受賞
第58回(昭和42年度下半期)直木賞
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『アメリカひじき』(あめりかひじき)は、野坂昭如短編小説。野坂自身の戦後焼跡闇市体験を題材にした作品である。少年時代に敗戦を経験した男が、妻がハワイ旅行中に知り合った初老のアメリカ人夫婦を自宅に招くことになり、敗戦直後の占領軍に対する一種のコンプレックスを呼び覚まされる物語。ひもじさで米軍捕虜の補給物資をくすねたブラックティー紅茶の葉)を「アメリカのひじき」だと勘違いして食べた惨めで恥ずかしい思い出や、ポン引きまがいの闇市体験が、22年後の時点のアメリカ人への複雑な心理と重なる様を、独特の関西弁を生かした文体で描いている。『火垂るの墓』で死んでしまった清太の「戦後社会を生き抜いた場合のパラレルワールド」的その後にあたる。
発表経過

1967年(昭和42年)、雑誌『別冊文藝春秋』9月号(101号)に掲載され、同時期発表の『火垂るの墓』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はアメリカ(英題:American Hijiki)をはじめ、各国で行われている。
構成・モデル

物語の構成は、戦後22年の時点に、敗戦直後の時代の回想をランダムな時系列で所々に入れ込み、過去と現在の主人公の複雑な心理を表現する流れとなっている。主人公の気持は、戦後22年を経た時点の作者・野坂昭如の意識と見合ったものだと尾崎秀樹は推測している[1]。なお、回想部に登場するアメリカ兵やその他の人物などは、野坂の実際の体験と重なる部分も多く、ケニスという人物などは野坂が知り合った実在の人物であるという[2]
作品背景
時代と世代背景

『アメリカひじき』の書かれた1967年(昭和42年)は、戦後生まれが20代となっており、作中にあるように、その頃の若者は、野坂昭如のような戦争体験者とは違い、単純に憧れの目でアメリカを見ている者も増え、GHQの戦後教育が日本に浸透し始めた時代であり[3]、「いいにつけ悪いにつけヒステリックな意味ででも死ぬというふうに自分をかりたてることを、ひじょうにうまく骨抜き」にされ[3]、若者を「狂的になりにくくしている」と野坂は見ていた[3]

戦前の1930年(昭和5年)生まれの野坂は、1歳の時に満州事変、小学校入学時に盧溝橋事件が始まり、太平洋戦争は中学の時に終わった[1][2]尾崎秀樹はこの野坂の世代について、「戦争と戦後の陥没地帯」に少年時代を過ごし、「そのどちらにもついてゆけず、既成の権威や秩序が音をたててくずれるのを、その目で見、その肌で感じた世代」であるとし[1]、「それまで支配的であった八紘一宇一億玉砕が消えると、今度は民主主義平和憲法が立ち現れ、この世代はその言葉のハンランのなかでとまどい、生き恥さらす」と説明しながら、「虚妄に発し、虚妄に回帰するようなむなしさが、この世代をとりまくまがまがしさの実態」だと考察している[1]

野坂は神戸大空襲で罹災し、養父母を失い浮浪児生活を送り、焼跡闇市派としての体験を味わったが[1][2]直木賞受賞に際して野坂は、「ぼくを規定すると、焼跡闇市逃亡派といった方がいいかも知れぬ。空襲をうけて肉親を、焼跡と、それにつづく混乱の中に失い、ぼくだけが生き残った。燃えさかる我家にむけて、たった一言、両親を呼んだだけで、ぼくは一目散に六甲山へ走り逃げ、このうしろめたさが今もある。(中略)自分に対する甘えかも知れぬが、やはりうしろめたい」[4]と述べている。

また、それまで「鬼畜米英」と言っていた新聞が掌を返したようにGHQ寄りとなったため、すっかり落胆し、これが「原体験」に近いものとなったという野坂は[5]、それから後は一切何も信じなくなり、自分自身さえうまく生きてゆけば他人を裏切ってもいいというような気持になったが[5]、「戦争で(それまでの価値観が)全部ひっくりかえったところでも、大人のようにはなりきれなくて、やっぱりアメリカ人には強い憎しみをもっていた」とし[5]敗戦当時の時代の模様については次のように語っている。当時の一日一日の移りかわりを思い出せば、いったいどう描けば、あの片鱗なりとも読者に伝えられるのか、まことにもどかしい。神戸には九月二十五日に、進駐軍がやって来たのだが、ぼくは後にかなりGIと交渉をもつけれど、この頃はおびえるばかりで、その姿をみるとあわてて遠去かり、このくせは今もないではない。新聞に「キューキューと日米親善」なる見出しの記事があった。何のことかとおもえば、お互い、「サンキュー」「エクスキューズミイ」とゆずりあって、焼跡の整理を行うという意味のものだった。なんとも馬鹿馬鹿しく、そして腹が立った。 ? 野坂昭如「闇市とスクリーン」(『アドリブ自叙伝』)[2]
野坂の反米と反戦のしがらみ

『アメリカひじき』は、アメリカに対する複雑な心理のアレルギーモチーフとなって描かれているが、野坂はアメリカ兵について次のように述べている。空襲で雲の上から爆弾焼夷弾がどこかまわず落ちてきた、相手がさっぱりわからない。そこでは具体的にちっとも憎しみを感じなかったけど、実際問題として進駐軍がやってきて、ホッペタの赤い奴が町を歩いてるのをみると、こんなでかい、強そうなやつと、なんで喧嘩をしたんだろうという気持はあった。ただ、こいつたちがおれたちをひどい目にあわせたんだ、この野郎という気持だった。だから横浜の裏通りで、五、六人でアメリカ兵をぶんなぐって溜飲を下げていた。そして昭和二十七、八年までは、アメリカ人をみると、なんとかうまくごまかして生きてやろうという気持がずいぶんありましたね。(中略)僕は日本がいっぺんぐらい戦争に負けたからといって、平和国家であることがいちばん国家の形態としていいとも思っていないんで、やるならやったほうがいいという気がしないでもない。 ? 野坂昭如「エロチシズムと国家権力」[5]

その一方、自分の本音の中には、「ガタガタいうならやってやるぜというような気持」と、「戦争はいやだ、グータラ、グータラやっていきたい」という気持が共存しているとし[3]、次にように述べている。外国なんかで具体的にアメリカ人にバカにされると、「この野郎、もういっぺんやったるか」という感じがしてくるんですね。観艦式の写真なんかを見ても、世界に冠たる日本連合艦隊の思い出がよみがえってくるわけですよ。日章旗を後ろに背負って、仁丹万能の薬だといったような、そういった時代へのノスタルジアが抜きがたくあるんです。向こうがごちゃごちゃいうなら、核兵器どころか、BC兵器でもいいから、太平洋のなかにバラまいちゃうゾ、と開き直るような……。ところが、一方においては、なんかもう戦争がいやだというか、一挙手一投足しばられても、あんな一方側にゆだねて、ごたごたいわれるのはいやだという気持ちがかなり強いんですね。


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