アメリカの鳥類
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アメリカの鳥」とは異なります。

アメリカの鳥類 (The Birds of America) ルイジアナサギ(サンショクサギ、Egretta tricolor )を描いたカバー
著者ジョン・ジェームズ・オーデュボン
原題The Birds of America; from original drawings by John James Audubon[1]
絵ジョン・ジェームズ・オーデュボン
国イギリス
題材北アメリカの鳥類図版[1]
出版日1827?1838
LC分類QL674 .A9 1827[1]

『アメリカの鳥類』(アメリカのちょうるい、英語: The Birds of America)は、博物学者画家であったジョン・ジェームズ・オーデュボンによる著書であり、アメリカ合衆国に生息する鳥類を幅広くカバーした図版を収録している。初版はエディンバラロンドンで1827年から1838年までセクションことにシリーズとして発行された。

この作品は99×66センチメートルの大きさでエングレーヴィングのプレートから刷られ、手彩色で等身大の鳥を描いた版画からなる。現在では絶滅したと考えられている鳥を6種(カロライナインコリョコウバトカササギガモオオウミガラスエスキモーコシャクシギニューイングランドソウゲンライチョウ)、含んでいる[2]。鳥のスケッチのうち50枚ほどについては背景の植物をオーデュボンのアシスタントであったジョゼフ・メイソンが描いており、本ではクレジットなしで複製されている[3]
出版経緯図版1、オーデュボンが描いたシチメンチョウ (Meleagris gallopavo)

1820年頃、35歳くらいであったジョン・ジェームズ・オーデュボンは北アメリカにいるあらゆる鳥を描くと宣言した[4]。オーデュボンは鳥類画において、当時真剣な画家のメディアとされていた油彩をほぼ断念し、水彩パステルクレヨンを好み、時には鉛筆木炭チョークグァッシュペンインクなども使用した。1807年の時点で、オーデュボンは死んだ鳥を描く際、針金を用いて生きているかのようなポーズに固定する方法を編み出していた[4]現在は絶滅したカロライナインコ  (Conuropsis carolinensis)

1823年、オーデュボンは自分の芸術作品を刊行できるくらいの金銭的支援を講読予約者という形で募ろうとしてフィラデルフィアニューヨークを訪れたが、十分な援助は得られなかった[4]。結局、1826年にオーデュボンは金銭的援助をしてくれる講読予約者と優れた技術を持つ彫版工や印刷業者を探して、自作のイラストのうち250点を持ってイギリスに船で渡った[5]リヴァプールマンチェスターで自作のドローイングを展示した後にエディンバラまで旅をし、そこで熟練した彫版工ウィリアム・ホーム・リザーズに会った。リザーズは最初のプレートのうち10枚まで彫ったが、彩色工がストライキに入ってしまったためプロジェクトを続けられなくなってしまった[1]。1827年にオーデュボンはロンドンの有名な動物専門の彫版工ロバート・ハヴェル・ジュニアとその父ロバート・ハヴェル・シニアと契約した。ハヴェル・ジュニアは1838年にプロジェクトが完成するまで作業を監督した。ナゲキバト (Zenaida macroura)

『アメリカの鳥類』の最初の版は印刷業者にちなんでハヴェル版と呼ばれることもあれば、またサイズの大きさから「ダブル・エレファント・フォリオ」と呼ばれることもある。この版は縦39.5インチ(100センチメートル)、幅28.5インチ(72センチメートル)の手製紙に刷られた。刷るのに使われた主な技術は銅板エッチングだが、エングレーヴィングアクアチントも使われた。刷った後で水彩により手彩色された。

オーデュボンはその都度支払いを受ける方式の講読予約で高価な版画プロジェクトの資金を調達した。1826年から1829年まで、オーデュボンは富裕なパトロンを版画シリーズの購読者としてとりこむ努力の一環として、鳥類学やアメリカの開拓地生活について講演をしながらイギリスをまわってパリまで旅した[6]。予約購読者にはフランス王シャルル10世、英国王妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン、第2代スペンサー伯爵ジョージ・スペンサーなどがおり、のちにダニエル・ウェブスターヘンリー・クレイなどアメリカ人もそれに加わった[6]

版画は毎月あるいは2か月おきにブリキのケースに入った5冊セットとして発行された[7]。それぞれのセットは通常、非常に大きな鳥1羽、中くらいの大きさの鳥1羽、小さな鳥3羽からなっていた[6]。13年のプロジェクトの終わりとなる1838年には、435枚のプレート(5枚×87セット)が総額870アメリカドルあるいは175イギリスギニー(183.75ポンド)で発行されていた。イングランド公共図書館に無料の献本をせずにすむよう、プレートは綴じられずに文章なしで出版された[1]。完全な版としては多くて200セットほどが編纂されたと推定されている[6]。付属する文章は別に分けて作られ、オーデュボンとスコットランドの博物学者・鳥類学者であるウィリアム・マクギリヴレイが1831年から1839年にかけて、『鳥類の生態』(Ornithological Biography, or, An account of the habits of the birds of the United States of America)というタイトルで五巻本としてエディンバラで刊行された[1]。文章をおさめた五巻本もあわせると、プレートとまとめて総額1,000ドルほどの価格になった。

フォリオ版ができあがると、オーデュボンはもっと入手しやすい版を作ることに決め、J・T・ボウエンという名前のフィラデルフィア出身のリトグラフ職人を雇った。ボウエン率いるチームはもっと小さなロイヤル・オクターヴォ版を作ったが、これは七巻本として予約購読者に頒布され、1,199セットを売って1844年に完結した。1877年までにさらにオクターヴォ版が5回刊行された。オクターヴォ版は『鳥類の生態』の文章を用いていたが、もともとは一緒に描かれていた鳥を別々にしたりしてプレートの数を500枚まで増やしていた。新しい絵も含まれており、オーデュボンやボウエンのチームのメンバーもかかわっていたものの、ほとんどはジョン・ウッドハウスが描いたものだった[8][9]

ビアン版(クロモ石版のパイオニア、ジュリアス・ビアンにちなむ)はオーデュボンの一番下の息子であるジョン・ウッドハウス・オーデュボンの監督のもと、1858年にニューヨークでロー・ロックウッドによりフルサイズで再版されたものだった[10]アメリカ南北戦争のせいもあり、この版は完結しなかった。44部のシリーズのうち15部だけができあがった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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