アメリカの人権と人権政策
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アメリカの人権と人権政策(アメリカのじんけんとじんけんせいさく)とは、アメリカ合衆国人権に関する実績・政策・状況・問題とその推移を論述するものである。
植民地時代のアメリカ(現在のアメリカの領土内)の人権政策

1607年-1890年、
先住民の居住地を併合。ヨーロッパからの植民者アメリカ大陸の原住民を大量に殺害し、土地を収奪して植民地を建設し、アメリカ合衆国建国後はアメリカ国民および植民者が原住民を大量に殺害し、土地を収奪して領土を拡大した。1607年を始期としている意味はイギリスからの植民者が恒久的旧植民地を建設した年度である。

1619年-1865年、奴隷制を実施。奴隷商人がアフリカ大陸から購入した奴隷をアメリカ大陸への植民者とアメリカ合衆国市民が購入し、奴隷労働により生産する農業経済を確立した。独立宣言アメリカ合衆国憲法で規定された生命・自由に関する規定は、奴隷には適用されなかった。

独立戦争 - 先住民との戦争終結までのアメリカの人権政策

1787年9月、アメリカ合衆国憲法を制定。アメリカ合衆国議会はアメリカ合衆国憲法を採択し、1789年3月憲法は発効した。

1862年7月、奴隷解放法を制定。アメリカ議会(上院下院とも共和党が多数派)は、アメリカ合衆国に敵対する南部連合(アメリカ連合国)が保有する奴隷を解放する第二押収法を可決した。

1862年9月、奴隷解放を宣言アメリカ政府リンカーン大統領・共和党)は、米南部連合国支配地域の奴隷解放を宣言した。

1865年1月、奴隷制廃止の憲法修正条項の制定。アメリカ議会(上院・下院とも共和党が多数派)は、アメリカ合衆国の全ての州における奴隷制の廃止を規定する憲法修正13条を可決した。

1865年12月、奴隷制廃止の憲法修正条項を批准。アメリカ合衆国に加盟する州のうち、4分の3以上の州がアメリカ合衆国憲法修正13条を批准し発効した。

1865年12月-2022年5月時点、人種差別主義者による暴力。奴隷制度が廃止され、奴隷だった黒人白人と対等の市民になったことに不満を持つ、白人優越思想を持つ人々は、秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)を設立し、黒人(アフリカ系アメリカ人)に対する暴行・傷害・殺害、選挙権行使の妨害、居住・就業・学校への入学の妨害、教会・交通機関の利用の妨害などの犯罪行為を繰り返した。それらの行為は1865年の奴隷制度廃止から1800年代後半までの期間、1900年代前半から1945年の第二次世界大戦終結までの期間、1945年の第二次世界大戦終結から1864年の公民権法制定までの期間、長期的には減少してきたが、2023年4月現在でも、秘密結社の会員数や人種差別思想に基づく犯罪・人権侵害は根絶されてはいない。

1871年、1871年の公民権法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも共和党が多数派)は、アメリカ合衆国連邦法に違反する州法を個人が連邦裁判所に告訴し、連邦法に違反する州内の問題の裁判権を連邦裁判所に移管する権利、公共部門の雇用で人種・皮膚の色・性・宗教・出身国による差別を禁止を規定する、1871年の公民権法(Civil Rights Act of 1871)を可決し、グラント大統領が署名して成立した。1871年の公民権法は、奴隷制度廃止後に白人優越思想を持つ人種差別主義者が、黒人を殺害または黒人に対する殺人以外の犯罪・差別をしても、人種差別思想を持つ白人の警察官・検察官・裁判官・その他の公職者が、白人の黒人に対する犯罪や差別を隠蔽する不問にする正当化する現実があり、そのような行為を未然に予防し、既に行われた犯罪と差別は連邦裁判所への告訴により、問題を解決しようとする目的で作成された。

1890年5月、電気椅子による死刑の合憲判決。アメリカ最高裁判所は、電気いすによる死刑を合憲判決した。アメリカ最高裁はこの判決の中で、「火あぶり、はりつけ、車引きのように刑罰が明らかに残虐で異常な場合には、このような刑罰が憲法上禁止されると判断するのは裁判所の義務であろう。刑罰が拷問を伴うような場合、もしくは死を長引かせるような場合には、残虐である。……憲法の禁止する残虐な刑罰とは、非人道的かつ野蛮な刑罰のことであり,すなわち単に生命を奪うことに止まらない」と述べた。これは、死刑そのものではなく、死刑の執行方法の如何によっては、その死刑制度が修正8条の禁止する「残虐で異常な刑罰」に該当しうることを示したものである[1]

先住民との戦争終結 - 第二次世界大戦終結までのアメリカの人権政策

1876-1964年、
ジム・クロウ法(人種分離法)を制定。奴隷制度が廃止された後も、アメリカの南部の州では、白人と黒人の居住区、学校、職場、病院、鉄道、バス、教会を分離する法律が制定され、1964年の公民権法制定まで継続していた。また、1896年5月に、アメリカ最高裁判所は、「分離すれど平等」 (Separate but equal) の主義のもと、公共施設(特に鉄道)での黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲とした判決を出し、1954年のブラウン対教育委員会裁判で最終的に否定されるまで、アメリカの標準的な主義として残った。

1924年7月、移民帰化法に出身国による移民制限を規定。アメリカ議会(上院・下院とも共和党が多数派)は、移民帰化法に、移民希望者の出身国別受け入れ制限、日本人の移民受け入れ数を0にする、第13条C項の移民制限規定の追加を可決(排日移民法)、クーリッジ大統領(共和党)が署名し成立した。

1938年6月、公正労働基準法の制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、未成年者の雇用を禁止し、超過勤務の時間給を50%増しとする公正労働基準法(Fair Labor Standards Act)を可決し、ルーズベルト大統領(民主党)が署名して成立した。

1935年8月、1935年の社会保障法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、失業保険、退職給付金、障害者保険、死亡保険の給付を規定した1935年の社会保障法(Social Security Act of 1935)を可決し、ルーズベルト大統領(民主党)が署名して成立した。

1935年8月、1935年の連邦保険拠出法税を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、1935年の社会保障法の財源として、雇用主と被雇用者に課税する1935年の連邦保険拠出法税(Federal Insurance Contributions Act Tax of 1935)を可決し、ルーズベルト大統領(民主党)が署名して成立した。

1942年2月-1945年8月、日系市民を強制収容所に収監。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・民主党)は、日系アメリカ人を強制収容所へ収監した。また、日系アメリカ人であるフレッド・コレマツが日系アメリカ人の強制収容は違憲と主張し提訴し、裁判で争ったが、アメリカ最高裁判所は、最終的に「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要な事態である」との言い分のもと1944年12月に違憲ではないとの判断が下った。この判決自体は現在でも覆ってはいないが、2011年にはアメリカ合衆国司法省が公式的に過ちだったことを認めた。更に、合衆国政府としては、1988年にロナルド・レーガン大統領(共和党)が「市民の自由法(日系アメリカ人補償法)」に署名した際に、強制収容を受けた日系人に対して謝罪を表明している。

第二次世界大戦終結 - 冷戦終結までのアメリカの人権政策

1945年11月-1948年12月、軍事裁判で
連合国の人道犯罪を無視。アメリカ政府(トルーマン大統領・民主党)は他の連合国政府とともに、ニュルンベルク裁判極東国際軍事裁判では、ドイツ日本が戦争を起こした罪、戦時下の捕虜や民間人の生命や自由を侵害した人道犯罪は訴追し有罪にしたが、アメリカ軍日本本土空襲広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下ドレスデン爆撃モンテ・カッシーノ爆撃、ソ連軍フィンランド侵攻リトアニアラトビアエストニアモルドバへの軍事侵攻と併合、カティンの森事件シベリア抑留、非占領地住民の強制移動、兵士による強姦、その他の捕虜や民間人の生命や自由を侵害した大多数の人道犯罪は不問にした。


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