アメリア・イアハート
Amelia Earhart
アメリア・イアハート(1935年頃)
生誕Amelia Mary Earhart
(1897-07-24) 1897年7月24日
アメリカ合衆国・カンザス州アッチソン
アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart [??mi?li? ???rh?rt][1]、1897年7月24日 - 1937年7月2日)は、アメリカの飛行士。 1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことから[2]、ミス・リンディの愛称がある。知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていた。これらは出版人であった夫のジョージ・パットナム
概要
1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦するが、同年7月上旬に[3]、南太平洋において行方不明となった[4]。遭難の経緯や捜索状況は、日本国内でも新聞で報道された[5]。その後アメリカ海軍と大日本帝国海軍により大規模な捜索が行われたが、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、イアハートの失踪が「ミステリー」として取り上げられることとなった。
アメリカでは今も代表的国民ヒロインの一人(スミソニアン博物館所蔵品の3Dデータ公開ではライト兄弟機と同時に彼女のフライトスーツが公開された)であり、さらに謎めいた最期のために、未だにSF・フィクションの世界では彼女の登場するものが少なくない。
また、イアハートは自身の体験を通じ、女性の地位向上のために熱心な活動を行い、ゾンタクラブ(英語版)の主要メンバーとして活躍していた。今もイアハートの名前を冠した奨学金制度(大学院課程で航空関連の科学や技術を学ぶ女性対象)が運営されている(2012年現在も活動が続いている)。
これらのことから、昨今、ナンバー1でなくても切り口を変えればナンバー1になりうる、としてマーケティング分析分野では「アメリア・イアハート効果」という語も生まれている[6]。 アメリカのカンザス州アッチソン
経歴
生い立ち
1921年にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ネタ・スヌークから飛行訓練を受け、最初の飛行機を買った (Kinner Airstar)。家族内の問題により1924年に飛行機を売り、東部に戻りソーシャルワーカーとして働いた。
女性飛行家飛行機の前でポーズをとるイアハート(1928年)
1928年4月のある午後、イアハートは仕事中に一本の電話を受ける。電話の主、ジョージ・パットナムは通話の終わりにイアハートに尋ねた。「大西洋を飛びたいと思いますか」。イアハートは政治評論家で出版者であったパットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズ(英語版)と副操縦士兼エンジニアのルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして加わるように依頼された。この時点で、大西洋横断を試みた女性は存在していたが、いずれも墜落して失敗。3人以上が死亡していた[7]。
1928年6月17日、3人が乗ったフレンド・シップ号(フォッカー F.VII)は、ニューファンドランド島(現カナダ領)のトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。彼らはサウサンプトンから客船でアメリカへ戻った時、ニューヨーク州のマンハッタンで紙吹雪の舞うパレードと、カルビン・クーリッジ大統領によって開催されたホワイトハウスのレセプションで歓迎を受けた。
その時以来、飛行機で飛ぶことはイアハートの生活の一部となった。彼女はクリーブランドでの、ウィル・ロジャースによって「パウダー・パフ・ダービー」と呼ばれた女性の航空レースで3位になった他、1931年にはオートジャイロでの最高到達高度記録も樹立した。
イアハートとパットナムは大西洋横断飛行の準備の間に愛情を深め、1931年2月7日に結婚した。イアハートは結婚を「二重のコントロールとの協力」と呼んだ。
記録樹立ロンドンデリーに着陸したロッキード・ベガ
1932年5月20日にイアハートはチャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と同じルートを、ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード ベガで出発した。
しかし強い北風と氷および機械的な問題で、アイルランドのロンドンデリー近くの牧場に着陸せざるを得なかった。イアハートは大西洋単独横断飛行の成功で、議会からの空軍殊勲十字章、フランス政府からのレジオン・ド・ヌール勲章およびハーバート・フーヴァー大統領からのアメリカ地理学協会のゴールドメダルを受け取った。
同年8月24日、女性では初のアメリカ大陸単独横断無着陸飛行のため、東海岸のニュージャージー州ニューアークを離陸。19時間後の翌25日、ロスアンゼルスに着陸し成功。1935年1月11日には、アメリカ領のハワイからカリフォルニア州オークランドまでの単独飛行にも成功した[8]。
遭難ロッキード・エレクトラとイアハート夫のパットナムと共に(1937年)
1937年(昭和12年)5月21日に赤道上世界一周飛行(赤道に沿って東西方向へ飛ぶ)に向かって、ナビゲータのフレッド・ヌーナン(英語版)とロッキード・エレクトラ10Eでカリフォルニア州のオークランドを飛び立ち、東回りに飛行し、6月30日にニューギニアのラエまで到着した。エレクトラは旅客機であり、通常は操縦士2名の他に旅客12名を載せて航行可能な機体であるが、イアハート機は長距離飛行のために客室内に増設タンクを設置した改造機であった。