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出典検索?: "アメイジング・スパイダーマン"
この項目では、コミック・シリーズについて説明しています。2012年公開の映画については「アメイジング・スパイダーマン (映画)」を、その他の名称については「アメイジング・スパイダーマン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
The Amazing Spider-Man
出版情報
出版社マーベルコミックス
掲載間隔月刊
形態オンゴーイング・シリーズ
掲載期間第1期: 1963年3月 - 1998年11月
2004年2月 - 2012年12月 2017年10月 -
第2期: 1999年1月 - 2003年11月
第3期: 2014年6月 - 2015年10月第4期: 2015年12月 -
製作者
ライターリスト
スタン・リー
ジェリー・コンウェイ
レン・ウェイン(英語版)
マーブウルフマン(英語版)
デニース・オニール(英語版)
ロジャー・スターン(英語版)
トム・デファルコ(英語版)
デイビット・ミッチェリニー(英語版)
製作者スタン・リー
スティーブ・ディッコ
『アメイジング・スパイダーマン』(原題: The Amazing Spider-Man)は、マーベル・コミック社が出版するアメリカン・コミックのシリーズである。このシリーズは同社のスーパーヒーロー、スパイダーマンの冒険にスポットを当てている。
1963年に月刊刊行を開始し、1995年に短期間中断して1999年に新たなナンバリングによる刊行を開始した。2003年にシリーズは通常のナンバリングに戻った。最初の巻のタイトルは時折隔週で出版され、2008年から2010年にかけて月に3回出版された。この『アメイジング・スパイダーマン』というタイトルは2012年の同名の映画にも使われている。DCコミックスが2011年に新たな1号を発行したアクション・コミックスとディテクティブ・コミックス(英語版)を再発行した後は、それが取り消されるまで、依然として流通していたアメリカン・コミックスのオンゴーイングシリーズの中でも最も高い数を記録していた。このタイトルは、2012年12月に発行された第700号で継続的に出版されたコミックスとしての50年間の連載を終えた。 スパイダーマンは1962年8月の『アメイジング・ファンタジー』誌15号で初登場した。同誌はその号で打ち切りとなったが、スパイダーマンというキャラクターは大変好評で、ソロシリーズ The Amazing Spider-Man が1963年3月に発行された。[1] キャラクターはライターエディターのスタン・リーと画家で共同プロッターのスティーヴ・ディッコによって創造され、このペアは1963年から1966年にかけて38号制作した。その後は多くの作家と画家が何年もの間、この月刊誌を引き継ぎ、マーベル最大の看板役者の冒険を年代記にしてきた。 アメイジング・スパイダーマンはキャラクターの旗艦シリーズである。スパイダーマンサーガのメジャーキャラクターやヴィランのほとんどはここで紹介され、キーイベントはここで起こっている。連続して刊行していたが1998年にマーベル・コミックがリランチし1999年1月号で新1号からカウントしなおした。しかし、スパイダーマン40周年記念を機にオリジナルシリーズのナンバリングを使用する事になり、2003年12月発行号から再び500号から数えはじめた。 刊行開始当初はリーとディッコの元、スパイダーマン誕生直後のキャリアを不運だが底抜けにユーモアを持つティーンエイジャー=ピーター・パーカーとしての市民生活を交えて描いていた。パーカーはスパイダーマンとしてのキャリアとデイリー・ビューグル社の(おおげさな編集長JJJの元での)フリーランスカメラマンとしての仕事を両立しており、自分自身と体の弱いメイおばさんを助けていた。時を同じくしてパーカーはスパイダーマンに対する社会の敵愾心やミッドタウンハイスクールのクラスメイトのフラッシュ・トンプソンやリズ・アレン達の敵意とも対峙している。その一方、ジェイムソンの秘書ベティ・ブラントとは試験的で不幸な恋愛関係を始めている。 パーカー家の日常的な問題にフォーカスを当てる事で、リーとディッコは欠点だらけで自己懐疑的なスーパーヒーローを、そして初めてのサイドキックではなく主人公としてのメジャーなティーンエイジャーのスーパーヒーローの草分けをつくり出したのである。ディッコの奇抜な画はマーベルの中心的なアーティストジャック・カービーの明らかに動的なスタイルと全く対照的で、ディッコのスパイダーマンはわずかに不吉で愛情がこもったアニメ的な画であり、[2]リーの筆致のユーモアとパトスと組み合わさって、不朽の神話となりうる基礎を創り上げていった。 スパイダーマンの主要ヴィランとサポートキャラクターのほとんどはこの時期に紹介されている。第一号(1963年3月)ではJ・ジョナ・ジェイムソンと彼の息子で宇宙飛行士のジョン・ジェイムソン、[3] そしてスーパーヴィランのカメレオンの初登場を取り上げている。[3]ヒーローチームファンタスティック・フォー[4]との初めての出会いもあった。第2号(1963年5月)ではヴァルチャーが初登場し、[5] この号からパーカーの新聞社デイリー・ビューグルでのフリーランスカメラマンとしてのキャリアが始まった。 リー/ディッコの時代ではかなりの数のヴィランやサポートキャラクターの案内が続いた。3号(1963年7月)ではドクター・オクトパス、4号(1963年9月)ではサンドマンとベティ・ブラント、6号(1963年11月)ではリザード、9号(1964年3月)ではエレクトロ、13号(1964年6月)ではミステリオ、14号(1964年7月)ではグリーンゴブリン、15号(1964年8月)ではクレイヴン・ザ・ハンター、18号(1964年11月)ではレポーターのネッド・リーズ、20号(1965年1月)ではスコーピオン、パーカーの卒業を描いた28号(1965年9月)ではモールテンマンが初登場した。 パーカーは31号(1965年12月)でエンパイアステート大学に通いはじめ、この号では友人でクラスメイトのグウェン・ステーシーやハリー・オズボーンも初登場を果たしている。ハリーの父親であるノーマン・オズボーンは23号(1965年4月)にジェイムソンのカントリークラブの一員として初登場したが、37号(1966年6月)までハリーの父親である事は明かされなかった。リー/ディッコの執筆期間中で最も祝福された号はおそらく[要出典]は33号(1966年2月)で、『If This Be My Destiny』というストーリーの3話目にあたり、重機による拘束から脱出しながら意志の力と家族に対する思いやりを交えてスパイダーマンの劇的なシーンを描いている。 執筆期間のほとんどは画家として制作に当たっていたディッコだが、最終的にリーにスクリプトとダイアログを任せながらもプロットにも手を出すようになった。しかし、両者の溝は深まり、ディッコが最終号『The Amazing Spider-Man#38』号(1966号7月)を仕上げるまで長らく口もきかない状態だった。ディッコとリーの分裂の決定的な理由は長らく論議の的になっている[要出典]。 後任のペンシラージョン・ロミータ・シニア リーとロミータはパーカーの世界で広く行き渡った敵意のシーンを抑えて、パーカーのサポートキャラクターとの関係を発展させ、スパイダーマンの冒険を描きながらもストーリーのフォーカスをキャラクターの社会・大学生活に移していくようになる。ストーリーは時事問題や市民権、人種差別、犯罪者の人権、ベトナム戦争、政党選挙などといった問題を取り扱うようになる。 50号(1967年6月)では高度に不朽の犯罪集団の親玉キングピンが登場し、スーパーヒーローシリーズ・デアデビルでも強力な敵となった。その他の特筆すべきリー/ロミータ時代の初登場キャラクターには41号(1966年10月)のライノ、46号(1967年3月)のショッカー、78号(1969年11月)のプロウラー、83号(1970年4月)のキングピンの息子リチャード・フィスクなどがいる。 1970年代には2つのスピンオフシリーズがスタートしている。1972年には『マーベル・チームアップ』が、1976年には『スペクタキュラー・スパイダーマン』がスタートした。
出版物の歴史
1960年代
1970年代