アム川
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アムダリヤ川

延長2574 km
水源ヒンドゥークシュ山脈
ワフジール峠
水源の標高4840 m
河口・合流先アラル海
流路 アフガニスタン
タジキスタン
トルクメニスタン
ウズベキスタン
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アムダリヤ川(アムダリヤがわ、ペルシア語:???????, ?m? Dary?、タジク語: Омударё、ウズベク語: Amudaryo / Амударё、カラカルパク語: ?ми?д?рья / Amiwdarya、トルクメン語: Amyderya)は、パミール高原ヒンドゥークシュ山脈から発するパンジ川ヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長2574km[1]、全長1415km[1]
呼称

「ダリヤ」は、「海(転じて大河)」を意味するペルシア語テュルク語読みになるので、アム川と表記する場合も見られる。

中国語文献に?水(きすい)又は烏滸河(おこが)とみえる。ギリシア語文献でオクソス(?ξο?、Oxos)の名前で記されている川で、ソグド語では「ワフシュ」(wxw?w)と呼ばれ神格のある大河であった。ペルシア語の「アームー(・ダルヤー)」の他に、アラビア語ではジャイフーン川(?????‎, Jay??n)とも称されていた。
地理
パンジ川パンジ川の流域

アムダリヤ川の源流はヒンドゥークシュ山脈ワフジール峠(標高4,923m)から発するワフジル川である[2]。これにオクスー川が加わってワハン川(ワハンダリヤ)になるが、すぐにパンジ川(ピャンジ川)と名前を変える[2]。パンジとは「5つ」の意味であり[2]パミール高原氷河万年雪などから流れ出た4つの川(パミール川(英語版)、グント川(英語版)、バルタング川(英語版)、ワンチ川(英語版))が次々と合流する[2]。パンジ川はタジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州とアフガニスタンのバダフシャーン州の間の高山地帯を西に進み、途中で北に大きく向きを変えて長い距離を流れていく。その後また南に向きにを変えると、高山地帯を抜けてタジキスタンのハトロン州に入る。

ハトロン州とウズベキスタンのスルハンダリヤ州の間はパミール・アライ山脈(英語版)から南に幾筋もの支脈が走り、支脈と支脈の間に盆地が広がる複雑な地形になっている。パンジ川が最初に出会うのはアフガニスタンのタハール州からハトロン州に広がる盆地であり、その西にはクンドゥーズ州から広がる盆地がある。この辺りはいくつもの川が合流する地域で、まず北からキジルスー川(英語版)が合流し、次に南からコクチャ川(英語版)が合流する。北からヴァフシュ川(ワフシュ川)が合流すると、パンジ川はアムダリヤ川と名前を変える[2]
アムダリヤ川

アムダリヤ川はタジキスタンとアフガニスタンの国境を西進し、南北から2つの川(クンドゥーズ川(英語版)とカフィルニガン川(英語版))が合流する。この辺りからアムダリヤ川左岸(南側)では、トルクメニスタンカラクム砂漠まで続く広大な平野が始まる。一方、アムダリヤ川右岸(北側)はウズベキスタンスルハンダリヤ州に変わる。北から2つの川(スルハンダリヤ川とシェラバード川(英語版))が合流すると、パミール・アライ山脈の最後の支脈が終わり、アムダリヤ川は砂漠地帯に入る[3]

アムダリヤ川がトルクメニスタンカラクム砂漠を北西に進んでいくと左岸にカラクーム運河、右岸にアム・ブハラ運河がある[4]ブハラではかつてはパミール高原の北側から流れてきたザラフシャン川が合流していたが、現在は干上がっている[4]。アムダリヤ川が更にウズベキスタンのキジルクム砂漠とトルクメニスタンのカラクム砂漠の間の国境を北に流れていくと、トゥヤムユン屈曲部がある[4]。ここから西はアラル海周辺のトゥラン低地である。この一帯はかつては河口デルタだった場所で、現在でも巨大なオアシスがある[4]。しかしカラクーム運河の分流量が多すぎた為に、アラル海が干上がり自然破壊水の危機が深刻化している。
歴史

アムダリヤ川を通じて流れてくる大量の川砂はカラクム砂漠キジルクム砂漠、河口デルタを形成した[5]。アラル海南岸の肥沃なデルタ地帯では4?5千年前から人が住み始め、農業が行われたことが様々な遺跡の調査で判明している。アムダリヤ川の支流の1つであるコクチャ川(英語版)には、有史以前からラピスラズリで知られていたバダフシャーン(バダフシャン)があった。またアムダリヤ川の上流域はトハーリスターン地方、中流域はザラフシャン川水系のブハラ、河口部には古都キャト(カタルーニャ語版、ドイツ語版、ペルシア語版)などのホラズム地方が隣接していた。またかつてのケリフ・ウズボイ(涸れ谷)や現代のカラクーム運河などを通じてメルブ遺跡(現在のマル)にも分流しており[6]、流域では様々な文明が生まれ滅んでいった。数千年の間にアムダリヤ川の流路は何度も変わり、川の流れが著しく変わるたびに人々は城を造り替えたため、その下流には多くの都城跡が残されている。例えば10?13世紀までホラズム王国の首都として栄えたウルゲンチは14世紀までホラズム地方の中心として栄えたが、17世紀にアムダリヤ川の流路が変わると南東150kmのヒヴァに繁栄の中心が遷り、ヒヴァ・ハン国などが出来た。

アムダリヤ川は中央アジアの大平原を2つに分け、北方からやってくる遊牧民イラン人などの地元住民を分ける国境としての役割も果たした。サーサーン朝時代には東方境域であるフワラーサーン(後のホラーサーン)地方と昭武九姓などが住むソグド地方とを分け、イスラーム時代になってもホラーサーンマー・ワラー・アンナフルを分かつ境となった。19世紀のアムダリヤ川はグレート・ゲームを演じるロシア帝国大英帝国がせめぎ合う境界となり、20世紀には共産圏とそれ以外がせめぎ合う境界となった。
気象ケッペンの気候区分

ケッペンの気候区分によると、パンジ川は高地地中海性気候に属し、アムダリヤ川の上流域と中流域は地中海性気候ステップ気候砂漠気候に属し、河口部は砂漠気候に属する。


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