アマビエ
江戸時代後期の弘化3年4月中旬(1846年5月上旬[注 1]に刊行された木版画。京都大学所有、京都大学附属図書館収蔵。(画像リンク
アマビエは日本に伝わる妖怪。海中から光を輝かせるなどの現象を起こし、豊作や疫病などに関する予言をしたと伝えられる。
同種と考えられる存在にアマビコやアリエなどがある。目次
1 概要
2 アマビコとの類似点
2.1 山童
3 創作でのアマビエ
3.1 水木しげる
3.2 地獄先生ぬ?べ?NEO
3.3 新型コロナウイルスとアマビエ
4 信仰とアマビエ
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要が望まれています。 (2020年3月)
アマビエは、江戸時代後期に製作されたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文とが記されている。肥後国(現・熊本県)の夜ごとに海に光り物が起こったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間[注 2]は諸国で豊作がつづく。しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる[1]。
瓦版に弘化3年4月中旬(1846年[注 1])という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が江戸に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く」(原文「づの如く」)とのみ記載されており[1]、文章による具体的な特徴の描写は無い。肥後国海中え毎夜光物出ル所之役人行
見るニづの如く者現ス私ハ海中ニ住アマビヱト申
者也当年より六ヶ年之間諸国豊作也併
病流行早々私シ写シ人々二見せ候得と
申て海中へ入けり右ハ写シ役人より江戸え
申来ル写也
弘化三年四月中旬
[ 図 ]
アマビエについての記録の類は、上記1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されているアマビコと呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に湯本豪一によって指摘されている[注 3][3]。姿かたちなどは異なるが、予言と除災という内容を持つほぼ同様な性質で描かれた妖怪たちは、ほかに件、白沢、神社姫、海出人、亀女など数多く存在しており、これらも瓦版や写本などの形で残されており、アマビコやアマビエと大同小異の内容の文章がいっしょにつけられている[4]。
アマビコとの類似点詳細は「アマビコ」を参照
尼彦の肉筆画(明治時代以降のものと考えられている[5])
湯本豪一所蔵
アマビコと称される妖怪についての図と話は、江戸時代後期から明治中期にかけての資料(瓦版や写本)や新聞記事などで確認されている。いずれも海中からの出現、豊作や疫病の予言、その姿を写した絵による除災、3本以上の脚部を持つ絵姿、「しばた」(柴田または芝田などと表記される)という姓の目撃者などの共通要素がある[4][6]。アマビコ及びそれに隣接すると見られる資料群は確認される年代の幅が前後に広いことから(弘化より少し早い天保から、明治にかけて散発している)湯本豪一は名称の誤記例とした[4][7]。長野栄俊はアマビエをアマビコの一例であるという考えも示しながらも[8]、アマビエはむしろ人魚系(魚系)の容姿をしており(三本足も神社姫という人魚から派生したという湯本説を引用しつつ)、アマビエとアマビコの外見上の”類似性は高くない”と結論付けている[6]。
肥後国の海に出現したとする資料が最も確認例は多く、アマビエを肥後国に出たとする話もこの影響下にあると考えられる。1876年(明治9年)に「尼彦入道」あるいは「アリエ」という名で新聞記事に報道されているアマビコに類する絵札の例でも「肥後国青沼郡」や「肥後国青鳥郡」の海に出現したされている(ただし、そのような郡が実在しないことは報道でも指摘されており、当時としても疑わしい話であると見なされていたと考えられる[9])。